給食サービスから製造業へ移って、分かったこと──給食サービス企業で見続けた「人形化経営」の記録【6】

社会と向き合う

制約の中で鍛えられた観察力

現在、私は給食サービス企業とはまったく異なる、食品製造業の現場に身を置いている。

もし私が最初から、価値を自分で定義でき、価格を自分で決められる構造の会社にいたなら、ここまで執拗に「組織」や「経営」を観察することはなかっただろう。

給食サービス企業という、自由度が極端に削ぎ落とされた業界。
あの場所で過ごした時間は、決して「無駄な遠回り」ではなかった。

むしろ、あの構造の中でしか鍛えられなかった特異な視力を、私は確かに手に入れていた。

「人」ではなく「構造」が人を決める瞬間を見た

かつての私は、「この管理職が無能だから現場が疲弊するのだ」そう単純に考えていた。
だが、給食の現場で疲弊し、思考を止め、調整役に徹していく管理職たちを観察するうちに、考えは変わった。

  • 価格は決められない。
  • 原価調整の余地もない。
  • 改善しても、その成果は値下げ要請として回収される。

そんな構造の中に置かれれば、どれほど優秀な人間であっても、やがて「考えない方が楽」になる。

無能なのではない。
無力化されているだけなのだ。

個人の能力より先に、構造が人の振る舞いを規定する。
この感覚は、整った環境の会社にいたら、おそらく一生、実感できなかったと思う。

言葉が「麻酔」に変わる瞬間への嗅覚

給食サービス企業では、経営が行き詰まるほど、言葉が美しくなった。

  • 「利他」
  • 「真心」
  • 「社会貢献」

それらの言葉が、戦略や数字の代わりに動員される場面を、私は何度も目撃した。
実体で語れなくなったとき、人は言葉を装飾し始める。
現場が削られている現実を覆い隠すために、理念はしばしば「麻酔」として使われる。

あの場所を経験したことで、私は言葉に対して過敏になった。

それが

  • 未来を作るための旗なのか
  • 現実から目を逸らすための煙幕なのか

その違いを、言外の匂いで感じ取れるようになった。

一円を解剖する感覚が、身体に残った

給食というビジネスは、一円の重みが異常な世界だ。
現場は、その一円を生み出すために、工程を削り、動線を詰め、時間を切り売りする。

その積み重ねで生まれた利益が、本社の無意味な会議や、実態のない広報物にいとも簡単に消えていく光景も、私は繰り返し見てきた。

利益の尊さと、浪費の空虚さ。
この二つを同時に理解する感覚は、あの薄利構造の中にいたからこそ、私の身体感覚として刻み込まれた。

今の職場で数字を見るときも、私は無意識に「この一円は、どこから来たのか」を考えている。

呪縛だった経験は、あとから武器に変わった

正直に言えば、あの場所での日々は楽ではなかった。
糸が見えてしまった観察者として、茶番に参加し続けることは、精神的にはかなり消耗した。

だが、今になって分かる。
その不快感こそが、私の観察眼を研ぎ澄ませた。

製造業という、自分で価値を定義し、自分で価格を決め、研究がそのまま資産になる世界に立った今、景色は驚くほどクリアだ。
そして同時に、その「当たり前」が、どれほど恵まれているかも痛感している。

給食サービス企業にいたからこそ、私はこの差異を、頭ではなく身体で理解できる。

経験は、使い方で意味が決まる

あの業界で得た「不条理を見抜く眼」は、私にとって最大の武器だ。

私はもう、虚構を支えるためにこの眼を使うつもりはない。
実体のある価値を作り、守り、人に届けるために使う。

人生も、仕事も、誰かに決めてもらうものではない。

私はこれから、自分の人生を、自分の手で値決めしていこうと思う。
あの場所は、去るための場所だった。

だが同時に、私をここまで連れてきた場所でもあった。

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