※この記事では、「色」や「空」といった『色即是空』の概念を扱っています。
※「色」と「空」、そして『色即是空』の意味をより深く知りたい方は、以下の記事で詳しく解説しています。
ブログという「かたち」への執着
今のブログは、私にとって三度目のブログ挑戦だ。
最初にブログを始めたのは、何かを“始めなければ”という焦りがあったからだ。
子どもが生まれたばかりだった。
仕事に追われながらも、心のどこかで「何かを残さなければ」という感覚が常にあった。
残すべき「何か」とは何か?
当時の私は、それを「お金」や「実績」のような、目に見える成果――色だと思っていた。
ブログで収益化する方法を調べ、SEOを学び、トレンドに乗り遅れまいと必死だった。
でも、長続きしなかった。
毎回、途中で心が折れてしまう。
文章を書きながらも、どこかで「自分の言葉ではない」と感じていた。
人の目を気にしすぎて、自分の声が聞こえなくなっていた。
日常という「宇宙」へのまなざし
では、私はなぜ再びブログを始めようとしているのか?
それは、「家族に、何かを残したい」という気持ちが、今も消えていないからだ。
ただ、今ならはっきりわかる。
私が残したいのは、お金でもなく、成果でもない。
それは、家族への想い――空だった。
一緒に過ごす時間、日々のやりとり、心の揺れ、ささやかな会話、そして、ふとした沈黙。
そうした一つひとつが、何よりも尊く、失われていくのが惜しいと感じる瞬間がある。
真理は、どこか遠くにあるのではない。
日常の中にこそ、散りばめられている。
それに気づかせてくれたのは、家族だった。
妻や3歳の娘が今日のできごとを話してくれたとき。
1歳の息子が、誰も見ていないのにおもちゃをそっと拾ったとき。
そんな何気ない瞬間にこそ、「本当のこと」が宿っている気がした。
問いと知識と表現の循環
しかし、問題があった。
私は、それを言葉にできなかった。
なぜ感じたのか、なぜ心が動いたのか、うまく説明できなかった。
感動だけが先行して、言葉が追いついてこない。
それがもどかしかった。
だから私は、知識を求めるようになった。
物理学に触れ、経済学を読み、宗教に感じ、心理学に興味を持ち、日本語の構造について考えた。
意味を理解しようとする中で、初めて「言葉にする」という営みが、知の積み重ねによって支えられていることに気づいた。
知識を入れることで、世界が変わる。
日常に潜む「問い」が、浮かび上がってくる。
たとえば、
「なぜ自分は今、イライラしたのか?」
「なぜ娘はあんなことを言ったのか?」
「なぜ沈黙が、こんなにも豊かに感じられるのか?」
そしてその問いに対し、私は自分なりの言葉で答えていく。
知識を通して見えた世界を、自分の心に照らして、再び言葉にする。
この「問い → 知識 → 表現 → また問い」という循環。
それがまるで、「色即是空、空即是色」のように、回り始める。
色(現象)を見て空(本質)を知り、空を知ってまた色を見る。
この循環が加速すると、不思議なことに心に奥行きが生まれる。
奥行きは、余裕をもたらす。
余裕は、新しい知識を迎え入れる場所となる。
そうして、さらに問いが深くなる。
未来の重さに打ちのめされ、それでも「今」を選ぶ
ただ、この道のりは途方もない。
終わりがない。
未来を考えると、恐ろしくもなる。
これを一生続けるのか?
正解のない旅に、出口はあるのか?
問い続けるだけの人生に、ゾッとした。
そんな不安に襲われる日もある。
気力が尽き、問いを無視したくなる日もある。
でも、それでもやっぱり私は「今」に立ち戻る。
「今」という問いだけに耳を澄ませる。
未来はまだ来ていない。
過去はもう過ぎた。
私にできるのは、「今この瞬間」を問い続けることだけだ。
夢という名の「祈り」
最後に、私の夢について少しだけ書こうと思う。
それは、とてもシンプルだ。
家族が健やかに生きていくこと。
ただそれだけ。
華やかな成功も、名声もいらない。
ただ、笑って生きていけること。
それだけで十分だ。
だけど、シンプルな夢ほど、強い。
それを叶えるには、自分自身が問いをやめないことが必要だと感じている。
問い続けることで、自分の輪郭が見えてくる。
その輪郭が、誰かの支えになれるかもしれない。
その「かもしれない」に、私は賭けてみたい。
だから私は、またブログを書こうと思う。
それは自己表現ではなく、誰かとの対話のための営み。
家族に向けた記録であり、未来の自分への手紙でもある。
言葉にすることで、世界は広がる。
問いを立てることで、人生は深まる。
その繰り返しの中に、私は生きていたい。







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