※この記事では、「色」や「空」といった『色即是空』の概念を扱っています。
※「色」と「空」、そして『色即是空』の意味をより深く知りたい方は、以下の記事で詳しく解説しています。
はじめに──言葉にできない願い
「道元禅師に会いたい」と、ふと思うことがある。
それは、単に仏教者としての思想を学びたいからではない。
彼が遺した偉大な著作『正法眼蔵』を読み解きたいからでもない。
ただ、会ってみたい。
そして、一緒に、同じ道を歩きたい。
語り合うことを求めているのではなく、
むしろ語らわずに在ることの尊さを知りたいのだ。
時代も場所も違う遠い過去の人間に、
こんな願いを抱くこと自体、不思議なことかもしれない。
だが、心の奥底で静かに願い続けている。
言葉ではなく、存在の調和
言葉はしばしば調和を乱す。
輪郭を与えることができる反面、余白や曖昧さを奪うこともある。
本来ひとつだった感覚に境界線を引き、
分けるためのツールであるはずの言葉が、
分ける必要のないものまで分断してしまう。
道元禅師が説いた「空(くう)」の思想は、
言葉で説明するには限界がある。
それは、体験し、感じるものだからだ。
たとえば、同じ空を見上げたときのことを思い出してほしい。
無限の広がりに言葉を失い、ただ静かに心が震えたあの瞬間。
その時、誰もが自然と沈黙し、
共有した何かがそこにあると気づくはずだ。
同じものを見て、同じ場所にいるということが、
最大の対話であり、調和である。
無言の道行き──それが調和
もし道元禅師と並んで、静かな山道を歩けるとしたら。
おそらく私は、軽く挨拶を交わし、自己紹介をするだろう。
「お会いできて光栄です」と心の中でつぶやくかもしれない。
しかし、それ以上の言葉は必要ないと思う。
なぜなら、歩く足音、呼吸のリズム、
揺れる葉の音、風のそよぎこそが、
語り合う言葉以上に豊かな交流になるからだ。
道元禅師もきっと、同じ空気を感じ、
同じ自然の一部としてそこに存在することを望むに違いない。
そしてもし、道元禅師が私に言葉をかけてきたのなら、
それはきっと、私がまだ気付いていない問いを示すサインだろう。
その言葉を受け取るためには、私自身がさらに深く内省し、
自分の心と対話しなければならない。

時を超えて、同じ空の下に
道元禅師は13世紀の鎌倉時代に生きた。
私は21世紀の人間である。
まったく異なる時代に生きる者同士であるにもかかわらず、
彼の思想が、私の内側に響く瞬間が確かにある。
「人間とは何か」
「空とは何か」
「無とは何か」
これらの問いは、時代を超え、場所を超え、
私たちを繋ぐ根源的なテーマである。
現代に生きる私たちにとっても、
道元禅師が示した「空」の感覚は決して古びない。
むしろ、情報と声があふれかえる今だからこそ、
沈黙の中にある調和を思い出す必要がある。
終わりに──語らわずに在ることの尊さ
私たちはどうしても、すぐに言葉を求めてしまう。
しかし本当に大切なことは、
語らずとも伝わるところにあるのかもしれない。
だからこそ、私は道元禅師と語り合いたいわけではない。
ただ、同じ道を、同じ空の下で一緒に歩きたいのだ。
沈黙の中に、宇宙の響きが宿る。
そんな静かで深い調和の時空を、私は心から願っている。








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