こんにちは。
ブログ「空にまれに咲く」へようこそ。
今日は、「時間」と「問い」について、少し思いを巡らせてみたいと思います。
それは、ふと心がざわつくような、不思議な感覚から始まりました。
未来の自分が遡ってきたのではないか?
ときどき、説明できないほど「気になる問い」が心に生まれることがあります。
ある言葉、ある場面、ある出来事。
特に強い意味があるわけでもないのに、なぜか気になって仕方がない。
胸の奥がざわついて、心が落ち着かない。
そんなとき、ふと思うのです。
もしかすると、これは未来の自分が、
ある問いを見落としたことを後悔して、
今の自分に届けに来たメッセージなのではないか──と。
未来の自分が、「あの時、気づいていれば」と悔いている。
その悔いが、問いとなって、過去の私に届いてきている。
そして、心がざわつく。
それは、ただの感情ではなく、「問いの震え」なのかもしれません。
時間は一直線ではない
一般的に、時間は「過去→現在→未来」と一直線に流れるものだと教わります。
でも、そうとも限らないのではないか。
いま私がここで感じているざわつきは、
もしかすると未来の出来事に対する“前兆”であり、
あるいは過去に見逃した問いの“残響”かもしれない。
私たちは、今この瞬間にしか生きられません。
けれど、今という瞬間の中には、すでに過去も未来も含まれている。
そう感じることがあるのです。
「有時(うじ)」という感覚
このような時間の捉え方は、道元禅師の『正法眼蔵』に記された「有時(うじ)」という考え方に近いものがあります。
時すなわち有なり、有すなわち時なり。
つまり、「存在する」ということと、「時間にある」ということは同じこと。
私たちは時間の流れの中にいるのではなく、時間として“今”を生きている。
過去・現在・未来は、別々ではなく、
この“今”という一点で重なっている。
それが「有時」という感覚です。
私が感じた「未来の自分が問いを届けに来た」という感覚は、
まさにこの有時のリアリティの中で生まれたものなのではないかと感じます。
心のざわつきは、時間を超えた問いの種
心がざわついたとき、
その正体はすぐにはわからないかもしれません。
けれど、それを無視してしまえば、未来の自分に同じ後悔が降りかかるのかもしれない。
だからこそ、そのざわつきに丁寧に耳を澄ませる。
問いを問う。
言葉にならなくても、問いとして抱きしめる。
ざわつきとは、未来から届いた手紙。
それを受け取る力こそ、いまを生きるということ。

今という一点に、すべてが重なる
有時とは、時間の流れに乗るのではなく、
いまこの瞬間に「ある」ことの重みを引き受けるということ。
未来を決定づけるのは、未来ではなく、今の気付きです。
過去の後悔を癒すのも、過去ではなく、今の問いです。
だからこそ、心がざわついたとき、
「なぜ自分は、これに心を動かされたのか?」
「この感覚は、どこから来たのか?」と問いを立ててみる。
その小さな問いのひとつひとつが、
時間を超えた自分との対話を生み、
人生を静かに、でも確かに動かしていくのだと思います。
未来から届く問いに応えるように
私たちは、未来を見通すことはできません。
けれど、未来からの問いには、今ここで応えることができる。
心のざわつきを大切にすること。
その震えを無視せず、問いとして抱えること。
それが、自分の未来を育て、過去に光を与えるということなのかもしれません。
そして、それこそが、有時を生きるということ。
今日もまた、ふと心が揺れたその理由を、静かに見つめてみたいと思います。
そこには、未来の自分がそっと残してくれた、かすかな手紙があるかもしれないから。
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