美徳の裏に潜む罠
「利他の心を持て」──この言葉は、響きがいい。
美しく、正しく、人間的だ。誰もが耳を傾けるべき教えのように聞こえる。
だが私は、この言葉を無条件に信じることができない。
なぜなら――利他は、使い方を間違えると、容易に収奪へと変わるからだ。
利他が美しいとき、何が前提にあるのか
本来の利他は、誰かに命じられて行うものではない。
心身が健康である
自分の生活が保たれている
心に余裕がある
NOと言える自由がある
その上で、なお「他者に手を差し伸べる」――この順序が崩れていないとき、利他は初めて美徳となる。
つまり、利己が守られているから、利他ができるのであり、利他のために利己を犠牲にすることではないのだ。
たとえば、仕事で手が空いたときに自発的に同僚を助ける人と、残業を強制されて他者の仕事を代わりにやらされる人の違いを考えてほしい。前者は利他、後者は単なる消費である。
利他が壊れる瞬間
利他が歪むのは、それが義務になるときだ。
- 「利他的であるべき」
- 「組織のために我慢すべき」
- 「空気を読んで動くべき」
こうした言葉が並び始めると、利他はもはや「選択」ではなくなる。
このとき、誰かの時間、体力、感情は静かに消費されていく。しかもそれは「美しいことをしている」「正しいことをしている」という言葉で覆われるため、収奪であることが見えなくなる。
職場の残業文化、ボランティアで燃え尽きる人、家庭で「親だから我慢すべき」と言われる場面──どれも同じ構造が働く。
利己が壊れた利他は、必ず歪む
利己が守られていない状態で利他を続けると、人は次第にこうなる:
- 感謝されないと腹が立つ
- 自分ばかり損していると感じる
- 「あの人は利他的じゃない」と他人を裁く
これはもう利他ではない。利他の仮面をかぶった利己だ。
そして一番厄介なのは、本人にその自覚がないことだ。
心理学の研究でも、「自己犠牲型の利他」が長期的に不満や燃え尽きに結びつくことが示されている。つまり、利他を美徳と考えすぎること自体が、人を傷つける可能性があるのだ。

組織が利他を語るときの危うさ
経営や組織の文脈で「利他」が語られるとき、特に注意が必要になる。
利他が、評価基準、人事考課、同調圧力に組み込まれた瞬間、それは思想ではなく統治の道具になる。
- 「君のためを思って」
- 「みんなやっているから」
こう言われながら、誰かの利己だけが削られていく。
これは精神論の問題ではなく、構造の問題だ。
歴史的に見ても、組織が利他を「義務」として押し付けると、個人の心理的健康は確実に損なわれる。戦場の兵士、長時間労働の労働者、家庭で過剰なケアを強いられる人──その共通点は「利己の土台が破壊されていること」だ。
本当の利他は、境界線を壊さない
健全な利他には必ず:
- 引き受けない自由
- 断る権利
- 一度離れる選択
が含まれている。だからこそ、押し付けにならない。
利他が尊いのは、自己犠牲だからではない。
自分を守った上で、それでも他者を思うから、尊いのだ。
利己は土台、利他は花
利己は、わがままではない。自分を生かすための最低条件だ。
- 休む
- 拒む
- 距離を取る
これらは利他の敵ではない。むしろ前提である。
利己という土台があって、その上に利他という花が咲く。
土台を削って花を咲かせようとすれば、根ごと枯れる。
おわりに
利他を語る社会ほど、私は「利己が守られているか」を見たいと思う。
- 誰が休めているか
- 誰が断れているか
- 誰が沈黙させられていないか
利他とは、優しさの量ではなく、構造の健全さの問題なのだ。
そしてその構造は、静かに、日常の中に現れる。







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