少しの範囲を守るという思想──多様性を壊さず、世界を支えるために

自分と向き合う

「少数派を取りこぼしたくない」

この言葉は、
何かを主張したいから生まれたものではない。
むしろ私は、
強い主張が生まれる瞬間を、何度も見てきた側だ。

正しさが固まり、
理念が掲げられ、
善意が制度になり、
そしていつの間にか、
そこからこぼれ落ちる人が現れる。

その光景に、
どうしても慣れることができなかった。

「守る」という言葉の違和感

「守る」という言葉は、一見やさしい。
けれど同時に、
どこか硬く、排他的でもある。

何を守るのか。
誰を守るのか。
どこまでを内側とし、
どこからを外側とするのか。

この線引きが始まった瞬間、
守りは同時に、切り捨てを含み始める。

だから私は、
「世界を守る」とか
「社会を良くする」といった
大きな言葉に、少し距離を置くようになった。

大きく守ろうとすると、なぜ壊れるのか

社会はよく、
全体最適や共通ルールを目指す。

それ自体は、合理的だ。
効率もいい。
説明もしやすい。

しかし構造的に見ると、
そこには必ず副作用が生まれる。

  • 平均値に合わない人
  • 例外的な状況にいる人
  • 言葉にできない違和感を持つ人

そうした存在は、
「ノイズ」や「想定外」として扱われる。

これは誰かの悪意ではない。
仕組みそのものがそうなっている。

私が選んだ、もう一つのやり方

だから私は、
全体を守ろうとすることをやめた。

代わりに選んだのは、

自分が責任を持てる
ごく小さな範囲だけを守る

というやり方だ。

それはとても控えめで、
頼りなくも見える。

けれど、この方法には
一つだけ、確かな強さがある。

無理をしない。

小さな範囲には、身体感覚がある

小さな範囲を守るとき、
そこには必ず身体感覚が伴う。

  • ここまでは分かる
  • ここから先は分からない
  • これは大切にしたい
  • これは他人に委ねたい

この感覚がある限り、
思想は暴走しにくい。

大きな理念ほど、
人は自分の感覚を手放してしまう。

固定は必要だが、大きすぎてはいけない

「守る」という行為は、
ある種の固定だ。

価値観を固定し、
立場を固定し、
場所を固定する。

問題は固定そのものではない。
固定を大きくしすぎることだ。

固定が巨大化すると、

  • 柔軟性が失われ
  • 修正が効かなくなり
  • 崩れるときは一気に崩れる

これは、
バベルの塔の構造とよく似ている。

小さな固定を、横に並べる

私が考えている守り方は、
縦に積み上げる固定ではない。

  • 小さな固定を
  • 横に並べる

それぞれが違う形をしていていい。
考え方が一致しなくてもいい。

一つが壊れても、
他が残る。

これは
中央集権的な正義ではなく、
生態系のような構造だ。

多様性とは「理解」ではない

多様性という言葉は、
よく「理解すること」だと誤解される。

しかし私は、
理解し合う必要はないと思っている。

必要なのは、

違うまま、消されずに残ること

無理に分かり合おうとしない。
無理にまとめない。

ただ、
存在し続けられる余地を残す。

なぜブログという形なのか

この思想に、
ブログほど合う媒体はない。

ブログは、

  • 読むことを強制しない
  • 反応を求めない
  • 途中で閉じても何も起きない

一記事は、
一つの小さな「守れる範囲」。

必要な人が、
必要なときに、
必要な部分だけ拾えばいい。

思想を配布するのではなく、
配置する。

少数派は、声を上げない

少数派は、
自分が少数派だと名乗らない。

  • 集まらない
  • 主張しない
  • 静かに離れる

だからこそ、
大きな声だけが残る。

ブログは、
そうした静かな人にとって
数少ない避難場所になる。

全員は守れない。それでもいい

正直に言えば、
全員を守ることはできない。

それを認めることは、
冷たさではない。

無理をしないという誠実さ

だと思っている。

少しの範囲ずつ、
守れるところを守る。

その点が、
あちこちに増えていけば、
結果として世界は壊れにくくなる。

おわりに

これは、
強くて立派な思想ではない。

むしろ、
とても弱く、地味だ。

でも、
弱いからこそ、長く残る。

私は今日も、
自分が守れる範囲だけを、
静かに守っていく。

それでいい。
それがいい。

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