泣き声に、一瞬、怯む
1歳の息子は、夜、眠る前にほぼ必ず泣く。
それも、甲高い声で全力で。肺の奥底からしぼり出すように。
その声を聞いた瞬間、私の心はすこし怯む。
まるで、夜の静けさを裂いて放たれるサイレンのように、
その泣き声は身体の奥に突き刺さる。
「なんとか泣き止ませなきゃ」と思う。
「眠らせなきゃ」と焦る。
けれど、そう思えば思うほど、息子の泣き声は鋭さを増す。
でも、ふと、気づく瞬間がある。
この泣き声を「止めさせるべきもの」として受け取る限り、
彼は私に心を預けない。
だから、決めた。
この甲高い泣き声のすべてを、まるごと受け入れようと。
自分を揺らがせず、ただ、ここにいること。
泣いている息子を“なんとかする”のではなく、
そのままの彼を受け入れる。
そう意識を変えると、泣き声が不思議と柔らかく聞こえてくる。
泣き声の向こうにある「命の叫び」のようなものが、
次第に愛おしさとして響いてくる。
「寝かしつけよう」とするほど、眠らない
大人の意志というのは、子どもにとってとても重い。
「早く寝かせたい」「疲れているから寝てほしい」──
そんな気持ちを子どもは驚くほど正確に感じ取る。
そして、それに反応する。反発する。拒む。
なぜなら、その時点で子どもは“手段”にされてしまっているから。
眠ることによって、大人を満足させる「対象」として見られているから。
けれど、私がその期待やコントロールを手放したとき、
不思議と息子は穏やかになり、
そして、自分から眠りの世界へ入っていく。
眠るという行為は、決して「操作できる対象」ではない。
眠りとは信頼の証なのだ。
寝るとき、子どもは“孤独”に直面している
息子の泣き声を聞いていて思うことがある。
それは、「寝ることは、孤独に出会うことなんじゃないか?」という感覚だ。
夜の暗さ。
親の腕から離れていく感覚。
意識が薄れていく怖さ。
「自分は一人なのではないか?」という不安。
大人になった私たちは、もうそれに慣れてしまっている。
でも、生まれてまだ1年の彼にとっては、
眠ること=「世界から切り離されること」かもしれない。
だから泣く。
「私はここにいるよ!」
「私のことを忘れないで!」と、叫んでいる。
そして、私はそれに応える。
「一人じゃないよ」
「ちゃんとここにいるよ」
そう伝えるように、抱きしめる。
言葉ではなく、体温で、呼吸で、皮膚感覚で。
子どもは“量子的な存在”
私はときどき、子どもを量子的な存在だと感じる。
量子は、観測することで状態が決まる。
つまり、「見られているかどうか」で世界が変わる。
子どももまた、こちらの“あり方”によって反応を変える。
「寝かせよう」と力を向ければ、反発する。
ただ「そばにいるよ」と心を静かに保てば、安心する。
関係性が全てなのだ。
“孤”とは、関係性が途切れてしまった状態。
つまり、それは“死”に限りなく近い。
自分が誰からも関係を持たれていないと感じること──
それこそが、最も人間を苦しめる。
だから、息子に伝えたい。
「あなたは一人じゃない」
「誰とも繋がっていないように見えるその夜にも、私はそばにいるよ」
愛とは、手放すこと
この寝かしつけの中で、毎晩学ばされることがある。
愛とは、「こうしたい」と願って行動することではない。
むしろ、「どうなってもいい」と手放した先に、
本当に信頼し合える関係が芽生える。
コントロールせず、結果を求めず、ただ“そこにいる”。
ただ、自分をまるごと相手に差し出す。
それが、愛なんだと思う。
眠っていく息子の顔を見ながら、
私は静かに、自分にも言い聞かせる。
「手放そう」
「怖がらず、ただそこにいよう」
それが、たぶん、愛のかたちなんだ。

  
  
  
  





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