食べることは、生きること、そして国を守ること──『食糧戦争』を読んで、実家の畑を思い出す

書籍と向き合う

丸本彰造『食糧戦争』が問いかけるもの

こんにちは。「空にまれに咲く」へようこそ。

私たちは日々、当たり前のように何かを口にしています。
食べること。
それは、生きることの最も基本的な営みです。

けれどその「当たり前」の中に、どれほどの奇跡と恩恵、
そして歴史と思想が詰まっているか──
考えたことがある人は、どれほどいるでしょうか。

丸本彰造さんの『食糧戦争』を読んで、私は静かに深く揺さぶられました。
思い出されたのは、私の実家の畑の風景です。

春には、ふきのとうが芽吹き、
梅の香りがあたりに広がる。
夏になると、みょうがが土から顔を出し、
秋には、柿の木がたわわに実る。

あの風景こそが、実は国家の土台であり、命の根源だったのだと、
本を閉じたあと、気づかされました。

「食料自給率」とは何か──数字の奥に潜む問い

ニュースや政治の場で、「食料自給率」という言葉はたびたび登場します。
それは何パーセントか? 上がったか? 下がったか?

でも、私たちはその数字の中身を、どれほど実感をもって受け止めているでしょうか。

たとえば、現在の日本の食料自給率(カロリーベース)は、概ね37%前後
つまり、国民が摂取するカロリーの約6割以上が、海外からの輸入に頼っているということ。

もし世界情勢が不安定になり、
主要な輸出国が自国優先に切り替えたら?
もし、戦争や災害が供給ルートを断ったら?

たった数日で、スーパーから食べ物が消えるでしょう。
そして、それは戦争の始まりとほとんど同じ意味を持ちます。

銃声も爆撃も聞こえない。
でも、静かに、確実に、命が奪われていく。
それが、“食糧戦争”なのです。

便利さの代償──グローバリズムという名の侵略

便利になったね、と人は言います。
外国産の食材が安く手に入り、年中どんな野菜も果物も食べられる。
流通は整い、価格は安定し、家計にはありがたい。

でもその「便利さ」の裏で、何が起きてきたのか?

──農村が消えました。
──農家が激減しました。
──種が外国企業の手に渡りました。
──日本の台所が、他国の都合に左右されるようになりました。

それを「経済合理性」と呼ぶ人もいるでしょう。
けれど、合理性の名の下で失われたもの──それは命の自立性です。

日本がかつて持っていた、地域ごとの食の多様性、
土地ごとの営みと文化、知恵、季節感、自然とのつながり。
そのすべてが、“効率”と“競争力”の言葉に押し流され、
私たちは、誰の手によって何を食べているかさえ、わからなくなってしまった

実家の畑に根づいた命の記憶

思い出します。
実家の裏手にあった、小さな畑のこと。

雪がとけて、土が少しずつ湿りはじめると、
母が「ふきのとう出てるかな」と言って、私と一緒に見に行った。

土の間から、少しだけ顔を出しているその緑の小さな蕾。
天ぷらにして食べると、ほろ苦さと香りが口いっぱいに広がる。
「ああ、春が来たんだな」と体が先に気づく。

梅の実を摘んでは、梅干しを漬け、
夏の暑さの中で、汗だくになって茂みの中からみょうがを見つけて喜び、
秋の空の下で、柿をもぎながらそのままかじった甘さ。

それはすべて、私の「食」の原風景です。

そして今思うのです。
あの風景こそが、この国を支えてきたのだと。

自分で育て、食べることの意味

『食糧戦争』の中で繰り返されるキーワードがあります。
それは「自給」──自らに給するということ

自分で作る、自分で育てる、自分で調理する。
それは単なる“農”ではありません。
それは、「命に責任を持つ」という行為なのです。

現代人の多くが、土に触れたことがない。
野菜がどう育つかも知らない。
魚がどう泳ぎ、どんな季節に穫れるのかもわからない。

その“無知”が、実は最大のリスクです。

食を他人任せにしてしまうことは、
命を他人任せにしてしまうということ。
国家を、未来を、主権を、
誰かの都合に握らせてしまうということなのです。

「いただきます」は命への祈り

私たちは毎日、何気なく「いただきます」と言って食事を始めます。
でも、その言葉には本来、深い敬意と覚悟が込められていました。

命をいただく。
それは、別の命の犠牲のうえに自分が生かされるということ。

そしてそれを受け取る以上、
私たちはその命にふさわしい「生き方」をしなければならない。
そういう意味が、「いただきます」には込められている。

『食糧戦争』を読み終えてからというもの、
私はこの言葉を、以前よりも少しだけ丁寧に発音するようになりました。

私たちにできること

「でも、私たちに何ができるの?」

そんな疑問が浮かぶかもしれません。

答えは、意外とシンプルです。

  • 地元の農産物を選ぶ。
  • 季節の食材を食べる。
  • 産地に意識を向ける。
  • 農業体験に参加してみる。
  • 家庭菜園を少しでもやってみる。
  • 子どもに「これはどこで採れたのか」を話してみる。

それらの行為ひとつひとつが、
この国の未来に投票する行為です。
そして、食料主権を取り戻すための、小さくても確かな一歩です。

「食べること」は、生き方そのもの

実家の畑が、私の命を育ててくれました。
あの四季の恵みが、私の価値観を育ててくれました。

便利さや効率の向こうに、失ってはいけないものがある。
そのことを、私は『食糧戦争』と、実家の思い出から学びました。

これからも、私の「いただきます」は、
この国の大地と、水と、営みに捧げる祈りでありたい。

食べることは、生きること。
そして、国を守ること。
それは、きっと同じことなのです。

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