田んぼが教えてくれたこと──「色即是空 空即是色」を生きる

家族と向き合う

※この記事では、「色」や「空」といった『色即是空』の概念を扱っています。
※「色」と「空」、そして『色即是空』の意味をより深く知りたい方は、以下の記事で詳しく解説しています。

遊びたい子どもには重たかった、あの田んぼ

私の実家は稲作を営んでいた。
春は苗を植え、夏には草を取り、秋には稲を刈る。
子どもだった私は、そんな農作業に駆り出されるたびに、遊びに行けないことがつらくてたまらなかった。

ぬかるんだ泥に足を取られ、太陽に焼かれながら、一日中田んぼで動く。
友達が旅行やゲームに興じているなか、私は「義務」に縛られていた。
正直言えば、嫌だった。
田んぼは、子どもの私にとって、自由を奪う場所だった。

でも今では、あの時の経験こそが一番の宝物

大人になった今、あの田んぼの記憶は、少しも色褪せていない。
むしろ、人生の根っこになっていると感じる。

土に触れ、風に吹かれ、稲の香りに包まれながら過ごしたあの日々は、「食べることの意味」を私に深く教えてくれていた。
食とは、ただの栄養補給ではない。
それは、自然や人との関係性の中にある、命の授受なのだ。

そして私は今、親となり、子どもたちにもそれを伝えたいと思っている。
「自分で食べ物をつくる」ということの意味を、少しずつでも伝えたい。

食べることは、“空”を感じる入口だった

仏教の教えに、「色即是空 空即是色」という言葉がある。

「色」とは、形あるもの。目に見える世界。稲も、ごはんも、体も、すべて「色」だ。
「空」とは、それが“単体では存在し得ない”ということ。つまり、関係性や無常性そのもの。

稲が育つには、土、水、太陽、空気、微生物、そして人の手がいる。
それらの関係性がなければ、稲は育たない。つまり稲という「色」は、「空」の産物だ。

でも逆に、「空(関係性)」があるからこそ、「色(形)」が立ち現れる。
この両者は入れ替わるのではなく、ぐるぐると循環している

田んぼは、“色即是空 空即是色”の舞台だった

子どもの頃の私は、土を運び、水を引き、苗を植え、稲刈りをした。
それはただの労働ではなかった。

あの泥に足を入れた瞬間、私は自然とつながっていた。
稲とともに季節の変化を感じ、虫の音に耳を傾け、父と並んで働いた。
それは、まさに「空」を生きる体験だったのだ。

やがて稲は実り、それを刈り取り、干し、脱穀し、炊いて、口に運ぶ。
それが「色」となる。つまり、命の「かたち」になる。

そして、食べたものは体に取り込まれ、エネルギーとなり、排出され、また土へと還る。

この一連の流れそのものが、「色即是空 空即是色」の生きた実感なのだ。

「いただきます」に込められた祈り

日本語の「いただきます」は、ただの習慣的な挨拶ではない。
それは、命をいただくことへの感謝と承認の言葉だ。

稲や野菜、魚や肉、それらが自分の命を支えてくれる。
その命の背後には、無数の関係性がある。

太陽、雨、土、風、人。
「空」から生まれた「色」を、私は今、口にしている。

「いただきます」と手を合わせるとき、私たちはそのつながりを、静かに受け入れているのだ。

子どもたちに伝えたいのは、「つくる」という行為の尊さ

私は今、子どもたちに「食べ物を自分でつくる体験」をさせたいと思っている。

それは、何も大きな畑を持つという意味ではない。
小さなプランターでもいい。ベランダでトマトやバジルを育ててみるだけでもいい。

土に触れること。
育つ過程を見守ること。
自分の手で収穫し、調理し、食べること。

そこに、「空」がある。
そこに、「色」がある。
そして、それを繋ぐものとして、「いのち」がある。

終わりに──命を感じるということ

子どもの頃、私は田んぼが嫌いだった。
でも今では、あれほど大切な学びの場はなかったと思っている。

そこでは、教科書では学べない、「色と空の循環」を体で感じることができた。
それは宗教的な概念でも、哲学的な抽象でもなく、「生きる」ことの本質だった。

だから私は今、自分の子どもにも、田んぼでの体験のような「色即是空 空即是色」の循環を、形にとらわれず伝えていきたい。

食べるという行為は、日常にひそむ最も深い“悟り”の入り口かもしれないのだから。

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