ふとした一致が教えてくれる、家族というかたち

家族と向き合う

〜水を避けたその瞬間に、私たちはひとつだった〜

まな板を洗っていたときのこと。
日常の、なんでもない風景のなかで、ふいに訪れた「共鳴」の感覚があった。

蛇口の水を流しながら、食材を切ったまな板を洗っていた。
そのとき、横から妻がシンクに手を伸ばしてきた。
ちょうど、私の動きとタイミングが重なって、
そのままだと水が妻の手にかかってしまいそうだった。

咄嗟に、私は水の向きを変えた。
妻の手に水がかからないように。

気づいたら「体が先に動いていた」

それは、考えるよりも先だった。
「手にかかる」と思うよりも先に、体が反応していた。
まるで、自分の体の延長に妻の手があるかのように。

あとから、ふと思った。
なぜ、あの瞬間、水を避けるように動いたのか?

それは、きっと、これまでの積み重ねだ。
妻はアトピーで、手が荒れている。
水に触れるのがつらいときもあるし、冷たい水で痛みを感じることもある。
そんな様子を、何度もそばで見てきた。
そして、気にしている様子や、つらさを言葉でなくとも感じ取ってきた。

それが、もう「情報」ではなく「感覚」として自分の中にある。
だからこそ、あの瞬間、反射的に水の向きを変えたのだろう。

意識せずとも共鳴していると感じられるとき

こうした「咄嗟の共鳴」は、なにも特別なときに起きるわけじゃない。
むしろ、日常のなかのささいな場面にこそ、あらわれてくる。

例えば、買い物に行ったとき。
ふたりで並んでスーパーを歩いていると、時々同じ商品に目がいく。
そして、まるで打ち合わせでもしていたかのように、同時に「これ買おうか」と口を開く。

「あ、同じこと思ってた!」

そんな瞬間に思わず笑い合う。
偶然のようでいて、偶然じゃない。
同じものを見て、同じように感じて、同じタイミングで言葉が出る。
これはやっぱり、ただの「趣味の一致」ではなくて、
一緒に暮らしてきた時間が、私たちの感覚の波を重ね合わせてくれたからだと思う。

「あなた」と「わたし」が溶け合うように

もちろん、夫婦であっても、他人同士であることに変わりはない。
価値観が違ったり、考えがすれ違ったり、ぶつかることだってある。

けれど、そうした違いを何度も通り抜けて、
何気ない瞬間にふと「一体感」が芽生える。
それは、ふたりの間にできた一本の「感覚の橋」のようなもの。

たとえば、水を避けるという行動。
そこには、「相手を思いやる」気持ちもあるけれど、
もっと深いところで、もはや「私とあなた」という境界が薄まっているような感覚があった。
自分の体を守るように、相手の体も自然と守ろうとしていた。

これは、「理解」ではない。
「共鳴」だ。

そして、そうした共鳴は、
言葉ではなく、ふるまいによって生まれてくる。

家族という共同体の、静かなよろこび

「家族になる」というのは、
ただ一緒に暮らすことではない。
ましてや、同じ名字になることでも、法律的な契約でもない。

家族とは、「感覚が共鳴する存在」になることなのかもしれない。

それはとてもゆっくりと、少しずつしか進まない。
けれど、ある日ふと、
「これは私の感覚じゃなく、私たちの感覚だ」
と感じられる瞬間がある。

水を避けたあの一瞬のように。

たとえ言葉にできなくても

きっと、こういう感覚は誰にでもあると思う。
でも多くの場合、あまりにもささいで、
気づかずに通り過ぎてしまうかもしれない。

けれど、それはとても豊かなことだ。
ふたりの間に「言葉にならない共通言語」があるということ。
その共通言語は、日常の繰り返しのなかで育まれ、
ふとした瞬間にしか表には出てこない。

でも、それがあるかどうかで、
人は安心できるのだと思う。

「私は、独りではない」

感覚の一致は、「信頼」のかたち

人は頭で考えていることよりも、
体で感じていることのほうに、深く信頼を置いている気がする。

だからこそ、意識していない瞬間に、
自然と相手を思った動きができたとき、
そこに「本当の信頼」があるように思う。

相手を「わかろう」とするのではなく、
相手の存在が、自分の感覚の中に「しみこんでいる」こと。
それこそが、家族の本質ではないかと思う。

終わりに:共に暮らすということ

水を避ける。
同じタイミングで「これ買おう」と言う。
そんな何気ない行為のなかに、確かなつながりがある。

家族とは、同じ屋根の下で一緒に生きる「小さな共同体」だ。
そして、共同体とは、
「違う個体」が、「同じ感覚」を持ち始めることで生まれるもの。

その始まりはいつも、
こうした小さな一致から。

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