米高騰の時代に、値を上げぬ父の背中──「儲けても意味ない」と言った、その静かな哲学

家族と向き合う

米が高くなっている、というニュースを見た

「米が高騰している」

スーパーでもニュースでも、そんな言葉が飛び交っている。
猛暑や自然災害、肥料代の高騰、流通コストの増加……
理由はさまざまだが、日々の食卓に並ぶ米の価格がじわじわと上がっているのは確かだ。

その頃、私は久しぶりに実家へと帰った。
田んぼのにおいがする田舎道を歩くと、
遠くに父の背中が見えた。いつも通り、土の匂いのする作業着姿だ。

父は何十年も米を作り続けてきた。
世の中がどう変わっても、春には田を起こし、夏には水を見て、秋には収穫する。
その繰り返しの中に、父の時間が流れていた。

値段、上げた?

そんな父に、ふと尋ねてみた。

「今、米の値段すごく上がってるらしいね。
 父さんのところも、もっと値上げしていいんじゃないの?」

素朴な疑問だった。
世の中の流れに合わせて、少しでも利益を確保するのは当然のことだと思っていた。

でも父は、笑ってこう言った。

「上げたには上げたけどな。儲けても意味ないからな」

最初、その意味がすぐにはわからなかった。
え? どうして? 意味がないって?

妻の親類の反応で、やっと気づいた

後日、妻の親類が父の米を注文してくれた。
届いた米を受け取ったあと、こう驚いた。

「この品質で、この値段? こんなに安くて本当にいいの?」

たしかに、いまどきここまで良質な米がこの価格で手に入ることは、珍しいらしい。
私の方が少し恥ずかしくなって、「いや、もっと値上げすればいいのに」と思った。

でもその時、父の言葉がふとよみがえった。

「儲けても意味ないからな」

それが口先だけのものではなく、
父の生き方そのものだったのだと、やっと気づいた。

儲けとは、誰のためのものか

資本主義の社会では、「利益」は絶対的な正義のように語られる。
努力は報われるべきだし、良いものには高い値がつく。
それは確かに正論だ。私自身、それに従って生きてきた部分もある。

でも、父は違った。

「暮らしていければ、それでいい」
「喜んで食べてもらえるなら、それでいい」
「自分だけ豊かになっても仕方がない」

それは、“商売人”としては効率が悪い考え方かもしれない。
でも、“人”としての生き方としては、圧倒的に強い哲学だった。

父の「値付け」は、市場価格ではなく「心の価格」だったのだ。

色即是空、空即是色──かたちあるものを、かたちのない心で扱う

仏教の言葉に「色即是空 空即是色」がある。

かたちあるもの(色)は、実は空(実体のないもの)であり、
かたちのないもの(空)は、実はかたちあるものとつながっている。

私たちは日々、モノや金額、数字という「色」を追いがちだ。
でも、その背後には、想いとか信頼とか関係性といった「空」が流れている。

父はまさにそれを生きていた。
お金を否定するでもなく、
ただ執着せず、必要なぶんだけを受け取る。

そして、それ以上の価値を、誰かに手渡していた。

お金で測れない豊かさがある

父の米は、金額だけ見れば確かに「安い」のかもしれない。
でも、そこには「誰かに食べてもらいたい」という思いが込められている。

それはきっと、
「人が人として生きるための価格」なのだ。

売り手も、買い手も、搾取しない。
お互いが少しずつ譲り合って、調和を見つけていく。

そんな取引が、この社会にどれだけ残っているだろうか。

父の背中は、言葉を超えた教えだった

「儲けても意味ないからな」

この一言に、父の人生の姿勢すべてが詰まっていたように思う。

決して派手ではない。
決して多くを語らない。
でも、黙って土と向き合い、人のために手を動かす。

その背中には、寺も教典もいらない。
そこにあるのは、ただ静かな「生き方」そのものだった。

わたしは、何を「値付け」しているのか?

帰りの車の中で、ふと自分に問いかけた。

自分は、日々の仕事に、どんな「値段」をつけているだろうか?
成果? 年収? 会社の評価? SNSの「いいね」の数?

それはすべて、「色」だ。かたちある指標だ。
でも、父の背中を見て、私は初めて、「空」に目を向けた気がした。

喜んでもらえたか。
信頼されているか。
つながりを大事にしているか。
自分の仕事に、心をこめているか。

そういう「空」を、ちゃんと見つめていたいと思った。

最後に

父の生き方を、今になってようやく少しだけ理解できた。
値段を上げなかった理由。
それは、強い意志の現れだった。

父は、いつも通りの値段で、
いつも通りの米を、
誰かの食卓に届けていく。

その姿に、静かな誇りを感じる。

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