「夫婦別姓」という自由の声
「結婚しても、名前を変えたくない。」
その声は、確かにまっとうで、個人の尊厳に根ざした自由の主張だ。
現代は「個」の時代。SNSでも、仕事でも、名前は「自分」という存在を形づくる記号であり、履歴であり、ブランドだ。
だからこそ、選択的夫婦別姓制度の導入を求める声は多い。
多くの場合、それは「個人の自由の確保」「旧姓を持ち続ける権利」といった文脈で語られる。
たしかに、それは大切な視点だ。
ただ、そこには盲点もある。
それは、「名前」が単に“個人を示す記号”ではなく、関係性の中で生まれ、受け継がれてきた「物語」でもあるということだ。
名字とは、つながりのしるし
日本では、結婚と同時に多くの人が「名字」を変える。
これは戸籍制度の運用上、家族が一つの「氏」を持つという前提があるからだ。
名字とは「家族」という単位を象徴する。
たとえば、親子が同じ名字であることで、「ああ、この子はこの家の子なんだ」と認識される。
その連続性が、私たちに「この世に属している」という安心感をもたらすこともある。
名字が同じであるというだけで、遠く離れた親戚に自分の存在が思い出されることもある。
お墓に刻まれた名字を見て、「ああ、自分はここに繋がっていたんだ」と静かに確認できることもある。
つまり名字は、「関係性のしるし」であり、「記憶の継承装置」であり、そしてときに「孤独からの避難所」でもあるのだ。
色が多い人
選択的夫婦別姓を強く求める人の多くは、名字にまつわる“煩悩”を抱えている人たちかもしれない。
・実家のしきたりに縛られる
・家業の継承を期待される
・親戚付き合いが重荷
・旧姓への執着や誇りが強い
そうした人にとって、「名字」は自分を不自由にする“色”なのだろう。
色が少ない人
だが一方で、この社会には“色”が少ない人たちもいる。
・子どもの頃に両親と死に別れた
・祖父母がいない
・親戚が少ない、または疎遠
・家という概念が希薄に育った
そういう人にとって、戸籍や名字は、希薄な関係性を支える“数少ないつながりの痕跡”になる。
名字があるから、自分が「どこから来たか」がわかる。
戸籍をたどれば、会ったことのない祖父母や曾祖父母の名にたどりつき、自分がこの世界に投げ出された存在ではなかったと、かろうじて思える。
私自身の話
ある日、ふと気づいてしまったことがある。
娘と息子には、妻側の従兄弟がいないのだ。
さらに、再従兄弟もいない。すなわち、妻の家系においては、子どもたちの世代がその“唯一の世代”なのだ。
一方で、私には父側、母側の従兄弟がたくさんいる。
従兄弟との関係は、私にとって自然な存在であり、いわば自分を確かめる一つの支えになっていたように思える。
その関係性が、自分の子どもたちには少ないのだと思うと、将来子どもたちの存在が危うくなるのではないかという不安が胸に湧き上がった。
私は、この不安にどう向き合えばいいのだろう。
血縁という「絆」がないと感じたとき、娘と息子はどうやって自分という存在を確認するのだろうか。

「自由」という名の選択が、誰かの“物語”を断ち切るかもしれない
制度としての「選択的夫婦別姓」は、選べる自由を尊重するものだ。
しかし、その選択の自由が、誰かの「つながり」や「物語」を知らぬ間に断ち切ることもあるかもしれない。
たとえば、両親の名字が異なれば、子どもが選択を迫られる場面もある。
どちらかの名前を選ぶことで、どちらかを捨てるように感じることもある。
たとえば、ある人が親を知らずに育ち、大人になって戸籍をたどって名前を知ったとき、そこに「自分の物語のはじまり」を見いだすことがあるかもしれない。
でも、もしその戸籍が分断されていたら? もし名前がバラバラで、その線が消えていたら?
「選択できること」は、ときに「物語をつなげられないこと」でもある。
名字は“空”によって紡がれた“名”
名字とは不思議なものだ。
物理的に存在しているわけではないが、そこに確かな重みと意味がある。
それは「空」によって紡がれた「名」。
意味やつながりが希薄になりがちな現代において、それでもなお、私たちをつなぎとめる糸。
色即是空、空即是色。
名字は「色」であると同時に関係性という「空」である。この空が消えた時、自分を失う。
誰もが見捨てられない制度とは
私は、選択的夫婦別姓そのものに反対するわけではない。
ただ、それを「当然の自由」として推し進めるだけでは、見えない誰かをこの世界から消してしまうかもしれない。
だから願うのだ。
選べる制度ではなく、「誰もが見捨てられない制度」を。
自分の意思で名前を変えられる社会。
でも、名前によって救われる人の物語も守られる社会。
その両方を見据えながら、「名前」という人間の根っこを、もう一度見つめ直してみたいと思う。
あとがきにかえて
この文章は、制度の賛否を問うものではない。
それよりも、制度の向こうにいる“見落とされがちな誰か”に向けて書かれたものである。
名前とは、生きづらさを抱える人をこの世界にとどめておく、数少ない「物語の名残」かもしれない。
その尊さを、今一度、思い出したい。
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