無駄に見える時間のなかに ― 関係性という「空(くう)」

家族と向き合う

※この記事では、「色」や「空」といった『色即是空』の概念を扱っています。
※「色」と「空」、そして『色即是空』の意味をより深く知りたい方は、以下の記事で詳しく解説しています。

妻と、義母と、そして「無駄」とされるもの

私の妻は、はっきりとした価値観を持っている。
「こうあるべき」という基準をしっかりと内に抱き、
日常の中でも、効率や整合性を大切にしている。

一緒に暮らしていて思うのは、
その姿勢はとても誠実で、美しく、潔いということだ。
だからこそ、彼女は物事を前に進める力を持っているし、
私も何度となくその力に救われてきた。

けれど、そんな妻が時折見せる、ある種の苛立ちがある。
それは、妻の母――私にとっての義母――との会話について語るときだ。

「また同じ話だったよ」
「どうしたいのか分からないのに、ずっと愚痴ばかり」
「何かを変えるつもりもないのに、話すだけで疲れる」

そんな言葉をこぼす妻の表情には、
困惑と、うっすらとした苛立ちのようなものが混じっている。

同じ話を繰り返す人の気持ち

義母は、同じような話を何度もする。
まるで、思考の渦の中を漂っているように、同じ話題に戻ってくる。

内容は、昔のこと、家族のこと、近所の出来事、
あるいは誰かに対する不満や寂しさなど。
愚痴ともとれるけれど、それ以上でも以下でもない。
ただ、「語る」という行為がそこにある。

話は堂々巡りだ。
結論があるわけではなく、
それで何かが解決するわけでもない。
聞いている側からすれば、確かに疲れるかもしれない。

でもあるとき、ふと思ったのだ。

もしかすると義母は、「解決したくない」のではないかと。
いや、もっと言えば、
「解決されることで、何かが終わってしまう」ことを、
どこかで恐れているのではないかと。

解決は「終わり」をもたらす

私たちは、「解決すること」を善とする社会に生きている。
問題を整理し、原因を特定し、対策を立てて、行動に移す。
それができる人間こそが、賢く、強く、評価される。

けれど、「解決されること」は、
同時に「その話題が終わること」を意味する。
もはや語る必要がなくなる。
もうそのことを二人で思い巡らすことはない。

かたち=色(しき)が与えられた瞬間、
その関係性は一つ、静かに
空(くう)になる。

もしかすると、義母はその「空」への一歩を避けているのかもしれない。
それは「未練」ではなく、「愛着」だ。
繰り返し話すことで、「まだここにある」関係性を確かめているのではないだろうか。

空(くう)に近づくということ

義母ももう高齢だ。
自分の体が、心が、社会との関係が、少しずつ終わりに近づいていることを、
肌感覚で理解しているのだと思う。

日々の暮らしのなかで、
かつて当たり前にあった会話や役割、
期待される存在としての自分が、少しずつ薄れていく。
それは目に見えない「消失」だ。

そんななかで、繰り返される会話は、
かろうじてつながりを保とうとする、静かな抵抗なのかもしれない。

語ることで、「私はここにいる」と誰かに伝えたい。
かたちにならない気持ちを、誰かと共有したい。
それがどんなに拙くても、意味がなくても、成果がなくても、
その時間があること自体が、すでに大切なのだ。

関係性は、意味ではなく「共在」

現代社会は「意味」に価値を置く。
この会話には意味があるか?
この行動には効果があるか?
この人間関係は自分の人生にとってプラスか?

けれど、本当はそうではない。
人が人として生きるうえで最も必要なのは、「意味」ではなく、「共にある」という実感だ。
共に在ること。
ただそこに、言葉と心と時間が流れていること。

それは無駄なようで、
実はものすごく濃密で、尊いものなのかもしれない。

妻の戸惑いもまた、自然なこと

とはいえ、妻が疲れてしまう気持ちも、よく分かる。
日々の暮らしに追われ、やるべきことが山積みの中で、
同じ話を聞き続けることは、確かに負担になる。

義母の気持ちに共感することと、
妻の苛立ちを理解することは、矛盾しない。
どちらも人として自然で、正直な感情だ。

それを踏まえた上で、
ほんの少し、視点をずらすことができれば、
お互いにとって新しい風が吹くのではないかと思う。

無駄の中にだけ宿るものがある

無駄な会話、意味のない時間、答えの出ない問い。
それらは、私たちが普段は切り捨ててしまいがちなものたちだ。
でも、本当に大切なことは、
その「無駄」の中にしか宿らないのかもしれない。

誰かと語り合う。
ただ話を聞く。
答えを出さず、判断せず、
感情と時間を共有する。

それは、とても非効率で、
とても人間的な営みだ。

生きているということの証

義母が同じ話を繰り返す。
妻がそれに戸惑う。
私はそのどちらの気持ちにも共鳴しながら、
静かに耳を傾けている。

その時間は、何かを生み出すわけではない。
でも、何かが確かにそこに「在る」のを感じる。

それは、
生きているということ。
誰かとつながっているということ。
そして、いつかそれが終わるということ。

だから私は思う。

「無駄な話」こそが、人生の最も確かな証なのだと。

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