『もののけ姫』が語る真理──制御ではなく、可能性を信じること

ジブリ

※この記事では、「色」や「空」といった『色即是空』の概念を扱っています。
※「色」と「空」、そして『色即是空』の意味をより深く知りたい方は、以下の記事で詳しく解説しています。

『もののけ姫』が語る真理──制御ではなく、可能性を信じること

はじめに──『もののけ姫』の核心に迫る

宮崎駿監督の代表作『もののけ姫』は、人間と獣の激しい対立を描いた大作として知られています。しかし、その奥にはもっと深い哲学的なテーマが込められています。

それは「制御しようとする未来には死しかない」という厳しい警告と、「受容と可能性を信じることで未来は開かれる」という希望です。

この記事では、こだまやシシガミ、祟り神、モロやエボシ、アシタカの姿を通して、『もののけ姫』が語る深いメッセージを読み解きます。さらに、大和国の衰退という喩えを通じて、現代や文明論的な視点も加えます。

シシガミとこだま──可能性と想像力の象徴

こだまは可能性そのもの

森に住む「こだま」は、自然の生命力が生み出す存在であり、可能性や想像力の象徴です。森――資源が豊かであればこだまは自由に現れ、未来の余白を示します。

しかし、シシガミの首が奪われると、こだまは次々に死んでいきます。これは「輪廻の循環が断たれ、可能性そのものが枯れること」を表しています

輪廻転生を止める行為

シシガミは命と死を司り、空と色の往還を体現する存在です。その首を奪う行為は、輪廻そのものを制御しようとすること。可能性や想像力を断ち切るその結果は、死と破壊以外にありません。

大和国の衰退──空を忘れ色に囚われた文明

空を紡がず他に依存する

大和国は、力=色を欲し、空=可能性や想像力を忘れた存在として描くことができます。自らで空を紡がず、他から力を得ようとする収奪の姿勢は、文明や国が衰えるプロセスと重なります。

収奪の果てに現れるシシガミ

力に囚われ、空を失った結果、制御不能の破壊=「死」が現れる。命を司る神でありながら、首を奪われれば森もこだまも死んでしまう──これは「自らの可能性を使わず、他に依存した果ての破滅」を象徴しています。

人と獣、制御と信頼の対立

エボシとジコ坊──制御しようとする人間

エボシ御前やジコ坊は、シシガミという命の源を力で制御しようとしました。繁栄や権力を求める彼らの行為は、一見未来を築くように見えても、その実、破滅への道でした。

モロとおっことぬし──空を信じる獣たち

おっことぬしやモロは森と共に「空」を信じて生きてきた存在です。しかし人間との争いの中で、次第に怒りと憎しみに囚われ、「色」へと偏っていきました。その末に彼らは暴走し、死を迎えます。

祟り神──囚われた想像力の暴走

祟り神は、空に生きていた存在が「色」に囚われた姿です。その暴走する力はまさに核分裂のようなエネルギーであり、制御不能の破壊を生みます。これは、可能性が閉じ込められた時に生じる「想像力の暴走」を象徴しています。

受容の光──モロとエボシのもう一つの側面

モロ──サンを育てた存在

モロは人間を憎みながらも、人間に捨てられたサンを育てました。これはまぎれもなく受容の行為です。彼女はサンを通して「人と獣をつなぐ希望」を育んだのです。

エボシ──病者や娼婦を受け入れた存在

エボシもまた、ただ支配と制御に走ったわけではありません。彼女は病に苦しむ者や娼婦たちをタタラバで受け入れ、生きる場を与えました。その姿勢は「弱者を見捨てない受容の精神」を体現しています。

棲み分けとしての共存

最終的にサンは森に生き、エボシはタタラバを再建します。二人は完全に分かり合えたわけではありませんが、互いに存在を認め、棲み分けて生きる道を選びました。これは「争いではなく、受容による共存」の象徴です。

アシタカの姿勢──可能性を信じる者

否定しない心

アシタカは誰一人として完全に否定しませんでした。サンも、エボシも、ジコ坊でさえも。彼は全てを理解しようとし、受け入れ、共に生きる可能性を探しました。

シシガミに認められた理由

アシタカの姿勢は、制御ではなく受容。排除ではなく共存。そのため、シシガミは彼を助けました。アシタカは「未来に余白を残す者」だったからです。

救われたのは「首」ではなく「想い」

重要なのは、アシタカとサンがシシガミの首を返したから助かったのではない、という点です。首を返すという行為そのものが救済をもたらしたのではなく、人と獣が共存しようとする意思を二人が示したからこそ、シシガミは未来に可能性を残したのです。

命を奪い、同時に命を与える存在であるシシガミにとって、行為よりも重要だったのは「想い」でした。アシタカとサンの心にある「共に生きたい」という願いが、森と人の循環を再び動かしたのです。

自然は死なない──人と獣の死の先に

『もののけ姫』が描いたのは、人や獣が争い滅んでいく姿でした。しかし、死ぬのは彼らであって自然そのものではありません。森は再び芽吹き、生命は循環を続けます。

つまり「死ぬのは人と獣であって、輪廻転生は止まらない」のです。自然は人間の争いや死を超えて、なお生命を再生し続けます。この冷徹でありながらも力強い視点こそが、宮崎駿監督の眼差しです。

現代への示唆──制御から共存へ

現代社会もまた、科学や経済の名のもとに自然を制御しようとしてきました。その結果、環境破壊や資源の枯渇、社会的な分断が生まれています。

必要なのは制御ではなく、受容と共存です。モロがサンを育てたように、エボシが弱者を受け入れたように、そしてアシタカがすべてを認めたように。未来は可能性を信じる心から始まります。

また、大和国の衰退という視点も示唆的です。力=色を欲し、空=可能性を紡がず他に依存する文明は、収奪と衰退の果てにシシガミのような破壊を招くのです。この視点は、物語を現代や歴史的文脈に重ねて考える手がかりとなります。

おわりに──可能性を残す勇気

『もののけ姫』は、「制御しようとする未来には死しかない」ことを示しつつ、「受容と可能性を信じることで未来は開ける」ことを教えてくれます。

モロの受容、エボシの受容、サンとエボシの棲み分け、アシタカの全的な受容、そして大和国の喩えを通して見える「色に囚われた力の果て」。すべては、争いではなく、可能性を信じて生きる勇気が未来をつなぐというメッセージにつながります。

自然は決して死なず、人と人、人と自然の未来は、私たち自身の想いに委ねられているのです。

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