無意味なことなんてない──気付きと消費税が奪う豊かさ

社会と向き合う

はじめに

1歳の息子とクッションでキャッチボールをした。
延々と同じことの繰り返し。息子が歩き、私にクッションを返す。最初はただの遊びに見えたが、気付けば息子の身体はしっかりと動きを覚えている。私自身も、息子の成長を感じ取りながら、繰り返しの中に潜む変化に気付いていた。

この「気付き」という営みは、日常のありふれた瞬間の中にひっそりと宿っている。
一見、無意味に見えることに意味を与えるのは、私たちの意識だ。

しかし現代社会では、この「気付き」を得る機会が少しずつ奪われている。とりわけ、消費税のような仕組みは、人々の「やり取り」や「小さな行動」を減らし、気付きを育む余白を狭めているのではないだろうか。

気付きが生む日常の豊かさ

繰り返しに宿る意味

子どもとの遊びは、同じことの繰り返しのように見える。
しかし、実際には同じ瞬間は二度と訪れない。
今日のキャッチボールと、昨日のキャッチボールは違う。息子の足取りも、クッションの軌道も、私の受け止め方も、毎回微妙に変化している。

この違いに気付くかどうかが、人生を豊かにする分かれ道だ。
同じことを「ただの繰り返し」と切り捨ててしまえば、日常は退屈に見えるだろう。
けれども、その繰り返しに潜む微細な変化に気付けたなら、毎日は驚きに満ちたものに変わる。

筋トレの静かな成長

筋トレも同じだ。
激しい筋肉痛がなくても、身体は確実に鍛えられている。成長は目に見えないところで静かに進んでいく。
「昨日と同じ動作を繰り返しているだけ」と感じても、神経や筋肉は少しずつ変わり、積み重なった時間の中で成果となって表れる。

つまり、無意味に見える繰り返しには、静かな変化が隠れている。
その変化を「気付くこと」でこそ、日常は意味を持つ。

会話や仕事の積み重ね

人との会話も、仕事のルーティンも同じだ。
ただ言葉を交わしているだけのようで、あるいは単調に仕事を繰り返しているだけのようで、実はそこには無数の気付きが潜んでいる。

「そうか、そういう考え方もあるのか」
「このやり方の方が効率的だな」

そんな小さな発見の積み重ねが、私たちを成長させていく。
無意味なやり取りなど、本当はひとつもないのだ。

政策が奪う「気付き」の余白」

消費税という構造的な壁

ところが、現代社会の仕組みは、この「気付きの場」を少しずつ削っている。
その代表が「消費税」だ。

消費税は、一見すると公平に見える。誰からも同じ割合で取るシステムだからだ。
しかし実際には、日常の小さな選択を抑制する力を持っている。

「本を一冊買うかどうか」
「カフェで一杯のコーヒーを頼むかどうか」
「子どもと一緒にちょっとした体験に参加するかどうか」

そのどれもが、消費税の分だけ「まあやめておこう」とブレーキをかけられる。

やり取りそのものが減るということは、気付く機会も減るということだ。
つまり消費税は「財布を圧迫する政策」であると同時に、行動や交流を減らし、気付きを奪う政策でもあるのだ。

効率が優先される社会

消費税は「効率よく広く税を取る仕組み」として導入された。
しかし効率を追求するあまり、犠牲になっているものがある。

それは、人と人との「偶然のやり取り」だ。
ちょっとした買い物、ささやかな贅沢、思いつきの会話──そうした余白の行動は、効率性の観点から見れば「無駄」に映るかもしれない。
だが実際には、その「無駄」にこそ気付きが宿り、人間の精神を育ててきた。

効率化の社会は皮肉なことに、「気付きという非効率な宝物」を削ぎ落としてしまうのである。

哲学的視点からの批判

哲学の言葉で言えば、気付きとは「存在を感じ取る行為」だ。
無意味に見える出来事の中に意味を発見し、それを通じて自分自身を変えていく。

消費税はその「存在の手触り」にまで課税している。
やり取りを減らすことで、気付く機会そのものを減らしている。

だからこそ、これは単なる経済政策の問題ではない。
社会が自らの精神的成長を抑圧し、人間らしい営みを縮小させているのだ。

気付きの哲学を取り戻すために

日常に意味を見出す実践

それでも、私たちは日常の中で気付きを取り戻すことができる。
子どもと遊ぶ時間、筋トレの繰り返し、仕事のルーティン、人との会話──そのどれもに小さな発見が潜んでいる。

政策によって余白が狭められても、気付きによって心の自由を守ることはできる。
「今日は昨日と違う」という事実を見つけるだけで、日常は静かに輝きを取り戻す。

批判から哲学へ

もちろん、政策に対して声を上げることも大切だ。
だが批判で終わるのではなく、「気付きの価値」を社会の中心に据えるべきだろう。

経済成長や効率性を基準に社会を設計するのではなく、人間の内面を豊かにする「気付き」や「余白」を大切にする社会へ。
それは哲学的な理想ではなく、日常の現実を少しずつ変える実践でもある。

おわりに

無意味なことなんてない。
それは気付かないだけで、確かに私たちを変えている。

子どもとの遊びも、筋トレも、会話も、仕事も──すべては気付きによって意味を持ち、私たちを育てていく。
だからこそ、社会は人々が気付きを得られる余白を守るべきだ。

消費税のようにやり取りを減らす仕組みは、気付きの総量を奪い、社会を痩せ細らせる。
私たちはもっと、「気付く自由」を大切にする方向へ進むべきではないだろうか。

哲学的な問いは、日常から生まれる。
そしてその問いに気付くことこそが、生きることを少し豊かにしてくれるのだ。

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