市場は本当に「価値」を評価しているのか
市場は「価値を正しく評価する装置」だと教えられてきた。
需要と供給が出会い、価格が決まり、
効率よく資源が配分される──それが市場経済の理想像である。
だが、現実はどうだろう。
人は疲れ、
仕事は分断され、
意味のある営みほど市場からこぼれ落ちていく。
問題は、市場が冷酷だからではない。
市場が測れないものを前提にしていないことにある。
市場は「結果」しか見ない
市場が扱えるのは、常に「結果」だけだ。
- 売れたか
- 数が出たか
- 利益が出たか
だが、仕事の本質である「流れ」は、
結果の前段階に存在する。
- 誰かの違和感に気づくこと
- 言葉にならない不安を受け取ること
- 関係が壊れないよう間に立つこと
これらは、市場ではゼロ円として扱われる。
なぜなら、
測れないからだ。
経済は「循環」ではなく「回転数」を見始めた
本来、経済(economy)は
「家を整えること(oikos + nomos)」だった。
つまり、
- 人が生き続けるための循環
- 使いすぎない配分
- 次の世代に残す設計
だが現代経済は、
循環よりも回転数を重視する。
- どれだけ早く
- どれだけ多く
- どれだけ止めずに
流れの“深さ”ではなく、
表層の“速さ”だけを見る。
結果、
流れそのものが枯れていく。
市場が得意なのは「刈り取り」である
市場は悪ではない。
ただ、役割が偏っている。
市場が得意なのは、
- すでにある需要を見つける
- 目に見える価値を拡大する
- 成熟した流れを刈り取る
逆に苦手なのは、
- まだ存在しない需要
- 形になる前の価値
- 時間のかかる信頼
つまり、
市場は「収穫期」には強いが、
「耕作期」には向いていない。

市場に合わせると、仕事は痩せていく
仕事を市場の論理だけで設計すると、
次のことが起きる。
- すぐ売れる形に削られる
- 分かりやすさが優先される
- 文脈や余白が切り落とされる
その結果、
- 本来つながるはずの人がつながらない
- 深まる前に関係が終わる
- 仕事が消耗品になる
これは生産性の問題ではない。
構造の問題だ。
「正しく評価されない仕事」が社会を支えている
考えてみれば、
社会を成り立たせている仕事の多くは、
市場では低く評価されている。
- 介護
- 教育
- 相談
- 調整
- 翻訳
- 見守り
これらはすべて、
流れをつくる仕事だ。
だが、市場は
「いくらで売れるか」という一点でしか
価値を判断しない。
そのズレが、
慢性的な疲弊を生んでいる。
市場経済が壊しているのは「関係の時間」
市場は時間を「コスト」として扱う。
- 早いほど良い
- 短いほど効率的
- 待つことは無駄
だが、流れをつくるには、
- 待つ時間
- 熟す時間
- 関係が沈殿する時間
が不可欠だ。
市場は、
この時間を切り捨て続けている。
仕事が苦しいのは、あなたの能力不足ではない
ここは強調しておきたい。
多くの人が感じている
「仕事のしんどさ」は、
- やる気の問題でも
- 能力の問題でも
- 努力不足でもない
市場と仕事の定義がズレているだけだ。
流れをつくろうとする人ほど、
このズレに傷つく。
市場の外に出るのではなく、市場を越える
では、市場を否定すべきなのか。
答えは、違う。
市場は使えばいい。
ただし、主語にしてはいけない。
- 市場に合わせて仕事を作るのではなく
- 仕事の流れに市場を接続する
順序を逆にする。
市場は、
流れが育ったあとに使う道具であって、
流れを決める神ではない。
おわりに|経済を「人間の側」に引き戻す
仕事とは、
流れをつくること。
経済とは、
その流れが壊れないよう整えること。
市場は、
流れがある場所に
静かに水路を引くための技術にすぎない。
もし市場が
人を疲弊させているのなら、
それは市場が強すぎるのではなく、
人間の定義が弱くなっているからだ。
流れをつくる仕事を、
もう一度、経済の中心に戻す。
それは理想論ではない。
生き延びるための、
現実的な再設計である。






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