妻はよく機嫌が悪くなる
もちろん、いつもではない。普段は明るくて、よくしゃべって、気遣いもできる人だ。でも、ふとした拍子に、機嫌が急に変わる。特に、お腹が減っている時や、眠たくて余裕がない時。
そんなときの妻は、結構、理不尽だ。
言ってることに筋が通ってない。明らかに、いま怒ることじゃない。むしろこっちが被害者じゃないか?と思うようなことでも、矛先がこっちに向かってくる。
昔の自分は、正しさで返していた
昔の自分なら、たぶんそのままぶつかっていた。
「なんで俺に言うんだよ」「それはおかしいだろ」と、正しさで返していた。
正論をぶつけ合って、余計にこじれる。やがて沈黙が続く。その空気の冷たさが嫌で、後味の悪さが残った。
でも最近、ちょっと変わってきた
でも最近は、ちょっとだけ変わった。
妻の理不尽な態度に、いまでは不思議と「まあ、そういう日もあるよね」と思えるようになってきた。
もちろん、何も感じないわけじゃない。ムッとすることもあるし、イラッとすることもある。だけど、「怖い」と思わなくなった。「正さなきゃ」とも、思わなくなった。
なんだろう。むしろその理不尽さすら、「彼女らしさ」と思えるようになったのかもしれない。
感情をぶつけられるという才能
我が強い。思ったことが顔に出やすい。感情がストレートに表に出る。
でもそれって裏を返せば、ものすごく誠実で、素直だってことなんじゃないか。
ちゃんと自分の感情を感じて、抑え込まずに表現できるって、すごいことなんじゃないか。
世界はもともと理不尽なものかもしれない
少し前に、こんなことを思った。
この世界って、そもそも理不尽なんだ、と。
台風が突然やってくるように、天気は思い通りにならない。
大切な人が病気になったり、何の落ち度もないのに事故に巻き込まれたり。
努力しても報われないこともあれば、不公平がまかり通ることもある。
「世界は合理的であるべきだ」と思いたいけど、現実はまったくそうじゃない。
むしろこの世は、本質的に「不条理」で「理不尽」なものでできているんじゃないかと思う。
だからこそ、人は秩序をつくる
にもかかわらず、人はずっと秩序を求めてきた。
ルールを作り、約束を交わし、感情を言葉で伝え、社会を築いてきた。
人と人との関係の中で、秩序や理解を生もうとしてきた。
そして、その営みの最小単位が「夫婦」なのかもしれない。
わからなくても、そばにいる
私は、妻の理不尽さの中に、世界の縮図を見るような気がする。
完全にはわかり合えない。気持ちは通じ合わないこともある。
自分にとっては納得できないことも、相手にとっては譲れない思いだったりする。
でも、だからこそ「愛する」ということは、
すべてを理解することではなく、理解できないままそばにいることなのかもしれない。
「理屈じゃ説明できないけれど、それでも一緒にいたい」
その感情こそが、愛というものの正体なのかもしれない。

理不尽を、まるごと受け入れる強さ
我慢ではなく、受容。
放置ではなく、共存。
正すでも、耐えるでもなく、「ただ、そこにいる」。
そういう愛し方があるとしたら、
たぶん今の私が妻に感じているのは、そういう類のものなんじゃないかと思う。
彼女が怒っても、苛立っても、不機嫌でも、
それも含めて、「今日も元気でいてくれてありがとう」と思える。
理不尽を、ひっくるめて、愛していく。
それは、穏やかで、強くて、どこか柔らかい。
そんな夫婦のかたちが、これからも続いていくといいなと、そう思っている。
あとがき:愛するとは、余白を抱きしめること
誰かを好きになるということは、「良いところが好き」なだけじゃなく、「面倒くさいところも許せるかどうか」にかかっているのかもしれません。
いや、許すというより、「許せないけど、まあいっか」と思える、その余白こそが愛なのかもしれません。
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