「家」という根の不在が揺らすもの——子どもたちに繋がりを遺すということ

日常と向き合う

気づいてしまった、不在の重み

ある日、ふと気づいてしまったことがある。
娘と息子には、妻側の従兄弟がいないのだ。

さらに、再従兄弟もいない。
すなわち、妻の家系においては、子どもたちの世代がその“唯一の世代”なのだ。

一方で、私にはたくさんの従兄弟がいる。
血が繋がった親戚が多く、長い年月をかけて築かれた絆がある。

従兄弟との関係は、私にとって自然な存在であり、
いわば自分を確かめる一つの支えになっていた。

その関係性が、自分の子どもたちには存在しないのだと思うと、
何とも言えない不安が胸に湧き上がった。

私は、この不安にどう向き合えばいいのだろう。
血縁という「絆」がないと感じたとき、
娘と息子はどうやって自分という存在を確認するのだろうか。

その答えは、すぐには見つからなかった。

妻との会話で気づいた「当たり前」の重み

ある日、妻にこんな話をした。

「従兄弟って、自分の存在を確かめられる相手だと思うんだよね」と。

すると妻は少し驚いたように、
「そんなふうに考えたことないな。あるの?」と返してきた。

私は笑いながら「うん、ないよ」と答えたが、
心の中では「今、初めて考えているんだ」と感じていた。

これまで、私にも妻にも従兄弟はたくさんいた。
だからこそ、その存在の意味を深く考える必要はなかった。

だが、今はその「当たり前」が
実は「当たり前ではなかった」と気づいた瞬間だった。

私の実家では、年末年始やお盆になると従兄弟たちと集まり、
一緒に遊び、何気ない会話をし、
親とは違う距離感で価値観を共有してきた。

その時間が、自分のアイデンティティを
どれほど支えていたのか、今になってようやく分かった。

失われた「当たり前」の影響

妻の実家には、代々受け継がれた土地や家はない。

娘と息子は従兄弟どころか、
「家系」を次に繋げる存在も持たず、
その“唯一の世代”として生きていくことになる。

一方、私の実家には土地も家も残り、
家族の歴史が息づいている。

兄や従兄弟たちの存在は、
私にとって当然のように「自分の一部」だった。

その存在が与えてくれる安心感を、
今になって強く実感している。

もし娘や息子が将来迷い、孤独を感じたとき、
従兄弟という存在がいないことは、
どんな影響をもたらすのだろうか。

親ができる、たった一つのこと

家や土地を持つことがすべてではない。
また、親戚づきあいを強制することもできない。

それでも、私たち親ができることはある。
それは「つながり」の感覚を子どもたちに伝えることだ。

物理的な「実家」だけでなく、
人と人の関係性や絆を意識的に作り、維持すること。

「自分はどこから来たのか」
「自分が属している場所はどこか」
その感覚を、子どもたちに持たせてあげたい。

例えば、私の実家に頻繁に足を運び、
親戚や従兄弟と会う機会を増やす。

娘と息子が従兄弟たちと時間を共にし、
自然と絆を感じられる環境を作る。

それが将来、彼らにとって「根」のような存在になることを信じている。

孤立と「自由」の間で

現代は個の自由が尊ばれる時代だ。
核家族化が進み、都市で離れて暮らす家族も多い。

しかし、その自由の代償として、
精神的な孤独やアイデンティティの喪失が忍び寄る。

家族や親戚とのつながりが薄れると、
「帰る場所」や「自分のルーツ」を見失うことがある。

娘や息子は、血縁のつながりを強く自覚せずに育つかもしれない。
でも、そうならないように、
私たち親は「戻れる場」を意識的に作っていく必要がある。

未来に渡す「繋がり」としての「家」

従兄弟は、ただの親戚の一部ではない。
それは「自分」を確かめられる証であり、
時には居場所を形作る鍵になる。

社会の形が変わっても、
人は「つながり」によって自分を見つけ、安定を得る。

私が渡したいのは、
物理的な家や血縁を意識させることだけではない。

それを自然に感じられる関係性や時間を、
子どもたちに残すことだ。

それこそが、後の世代に渡すべき
最も大切な遺産であり、
人生に迷ったときに帰れる場所になるはずだ。

根ざす場所が心にあればこそ、
子どもたちは風を受け翼を広げ、
果てしない空へと安心して飛び立っていけるのだ。

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