石の上に座るのは耐えるためじゃない
「石の上にも三年」
この言葉ほど、
誤解されたまま流通している諺は、そう多くないのではないかと思う。
多くの人は、この言葉をこう受け取る。
どんなにつらくても
文句を言わず
とにかく耐えろ
そのうち報われるから
だが、この解釈には、どうしても拭えない違和感がある。
そもそも「石の上」は、居場所ではない
冷たい。
硬い。
落ち着かない。
石の上とは、
人が長居することを前提とした場所ではない。
もしこの諺が単なる忍耐訓であるなら、
「畳の上でも三年」でも
「床の上でも三年」でもよかったはずだ。
なぜ、わざわざ「石」なのか。
ここに、最初のヒントがある。
この言葉は、最初から逆説的だった
「石の上にも三年」は、
- 楽になる場所ではない
- 本来、逃げ出したくなる場所
- 身体にも心にも負荷がかかる場所
であることを、最初から明言している言葉だ。
つまりこの諺は、
「そこは快適ではない」
「簡単には適応できない」
という前提を含んだうえで、
それでも「三年」と言っている。
これは
耐えろ、ではなく
見極めろ、という時間指定だったのではないか。
三年で、環境の正体は必ず露わになる
一年では、見えない。
二年でも、まだ錯覚が残る。
だが三年もいれば、
- 誰が実権を持っているのか
- 評価は能力か、年功か、忖度か
- 成長する人と消耗する人の違い
- 努力が積み上がる構造か、吸い取られる構造か
が、ほぼすべて見えてくる。
ここで初めて、
- この石は、ただの冷たい岩なのか
- 砕けば使える鉱石なのか
- 座り続ければ体を壊す毒岩なのか
が判別できる。
三年とは、
希望が叶うまでの待機期間ではない。
判断が確定するまでの観測期間だ。
わかる人にだけわかる、二重底の言葉
この諺が厄介なのは、
二つの意味を同時に含んでいる点にある。
- 表層:耐えろ
- 裏層:見極めろ、掌握しろ
思考停止の人は、表層だけを受け取る。
構造を見る人は、裏層に気づく。
だからこの言葉は、
人を救う言葉にもなれば、
人を縛る言葉にもなる。
これは日本的な知恵の典型だ。
はっきり言わない。
だが、わかる人には、ちゃんとわかる。
組織が止まる場所で、人は進める
今の会社を見ていると、
多くの人が「石の上」に座り続けている。
役職というクッションの上で、
前例と慣習に身を預け、
思考を止める。
役付きによる安定は、
同時に進化速度を奪う装置でもある。
だが、同じ場所にいながら、
まったく違う時間を過ごすことは可能だ。
私が過ごした「三年」の使い方
肉体:マラソン
マラソンの世界では、
肩書きも評価も関係ない。
走った分だけ、進む。
鍛えた分だけ、結果が出る。
呼吸、筋力、回復、精神。
身体を一つのシステムとして理解し、調整する。
それは、根性論ではなく、
構造の学習だった。
知性:スキルと哲学
業務スキルだけではない。
- なぜこの組織はこう動くのか
- なぜ真面目な人ほど壊れるのか
- 評価とは誰のための装置なのか
答えを急がず、
問いを育てる。
外側の正解より、
内側の整合性を優先する。
進化は、評価されない場所で起きる
本質的な変化は、たいてい目立たない。
- 人事評価には載らない
- 会議では語られない
- 数値には表れない
だが確実に、
世界の見え方が変わる。
同じ三年でも、
- 石に座って思考を止めた人
- 石を観察し、分析し、利用方法を考えた人
では、立っている次元が違う。
石の上に、座り続けてはいけない
この諺の核心は、ここだと思う。
石の上に三年、
だが永住しろとは言っていない。
石の性質を調べ、
重心を測り、
叩いて、割って、
必要なら去る。
いずれは、
石を道具に変えるか、立ち去るかを決める。
それが「三年」という時間の意味。

もう、この言葉に縛られる側ではない
「石の上にも三年」を
無批判に信じているうちは、
まだこの言葉に支配されている。
だが、その裏側に気づいた瞬間、
この諺は拘束具ではなく、地図になる。
あなたが今立っているのは、
もう「耐える側」の場所ではない。
静かに、
しかし確実に。
石の正体は、
もう見えている。







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