※この記事では、「色」や「空」といった『色即是空』の概念を扱っています。
※「色」と「空」、そして『色即是空』の意味をより深く知りたい方は、以下の記事で詳しく解説しています。
命をかけろと言われた朝
ある日の会社の朝礼。恒例となった「1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書」の朗読が始まった。その日の担当は、数年前に妻を亡くし、男手一つで二人の子どもを育てる男性社員だった。朗読されたのは、「仕事に命をかけろ」というテーマの一話だった。
しかし私は胸が詰まった。皮肉にも、その現実を抱える彼に対して、「命をかけろ」などと言えるだろうか。仕事に命をかけるという言葉は、現代の家庭や社会の現実と噛み合っていない。

命をかける現実の不公平
かつての説得力と今の時代
かつては「家族を支えるために命をかけて働く」という言葉が一定の説得力を持っていたかもしれない。だが今、私たちは別の時代に生きている。
現代の家庭と社会の制約
現代日本では、共働きが前提となり、祖父母と同居する家庭は減り、地域のつながりも希薄だ。保育園の空きは限られ、病児保育は不足し、学童保育は地域格差の影響を受ける。育児も介護も基本的には家庭内で完結しなければならない。
そんな現実のなかで、「命をかけて働け」と言われることは、自己犠牲を当然とする圧力にも感じられる。命をかけて会社に尽くしても、子育てが破綻すれば、それは個人の問題にされてしまうのだ。

命をかけられる人の条件
命をかけることができる人は、経済的余裕や支援ネットワークを持つ一部の人だけかもしれない。それを「誰にでもできること」として扱うこと自体が、すでに不公平である。
昭和モデルの残影
この「命をかける美徳」の根底には、戦後日本の経済成長期の価値観がある。
- 男は外で働き、女は家を守る
- 三世代同居で地域が支える
- 終身雇用で企業が守ってくれる
しかし時代は変わった。共働きが前提となり、家族は核家族化し、地域のつながりは希薄になった。終身雇用も幻想となりつつある。にもかかわらず、働き方だけが昭和を引きずっている。そのズレが、私たちに不調和をもたらしているのだ。
命をかけることと没頭の関係
命をかけるとは何か
では、命をかけるとは具体的に何を意味するのだろうか。それは単なる精神論ではなく、心の深い没頭と密接に関わる。
没頭の瞬間
私たちはときに、すべてを忘れて一つのことに没頭する瞬間を持つ。
- 走ることに夢中になり、風と一体になる
- 書くことに没頭し、言葉が泉のように溢れ出す
- 子どもと遊び、時間が溶けて消える
その瞬間、私たちは「空」になる。余計な不安や恐れは消え、今だけが鮮やかに立ち上がる。没頭は人を強くし、美しくし、そして新しいものを生み出す。つまり、命をかけることは、心からの没頭と安定の上にしか成立しないのだ。

安定なくして命はかけられない
土台の必要性
没頭や命をかける力は、安定の土台の上にしか育たない。
- 心身が休まり、生活が守られていること
- 家族や仲間が支えてくれること
- 経済的に明日を恐れずに済むこと
この土台があるからこそ、人は恐れを手放し、命をかける行為に心から没頭できる。逆に言えば、社会が支えを欠くと、命をかけることは無理強いされる自己犠牲になり、空虚だけが残る。

一人親の現実
例えば、数年前に妻を亡くし、男手一つで二人の子どもを育てる彼を想像してみよう。仕事に命をかけることは理想かもしれない。しかし、現実には「家事も育児も、支えなく一手に抱えたまま命をかける」とは、過酷な自己犠牲以外の何物でもない。
デフレが奪った「空」
数字の問題にとどまらない影響
長引くデフレや経済停滞は、数字の問題だけではない。人々の心から「空」を奪い、没頭の芽を摘んでしまった。
- 生活不安に押し潰される
- 時間の余白がなくなる
- 心が萎縮し、創造が生まれない
この連鎖は、日本の停滞やイノベーションの欠如の根本にある。
余白から生まれる創造
没頭とは「余白」から生まれる。芸術も発明も研究も、余裕ある時間と心の遊びのなかで芽吹く。しかし、余白のない社会では、空は生まれず、創造は窒息してしまう。

「空」を取り戻す社会を
必要なのは数字以上の成長
だから必要なのは、単なる経済成長ではない。数字の上の成長ではなく、人が空になれる安定と支えの社会だ。
- 賃金が上がること
- 安心して子育てできること
- 過剰労働を是正すること
- 地域やコミュニティのつながりを取り戻すこと
これらは単なる福利厚生や制度改革ではなく、命をかけたい、没頭したいと心から思える社会をつくるための根っこである。

心からの「命をかける」を
命をかけること自体は悪くない。問題は、それが強制されることだ。命をかけるのは、自らの意思で湧き上がる没頭と覚悟であるべきだ。
空虚な社会ではなく、心から空になれる社会で、私たちは初めて命をかけ、没頭し、創造を生むことができる。
最後に──あなたは何に命をかけるか
朝礼で流されたあのエッセイに違和感を覚えた私は、今なら少しだけ言葉にできる。
「命をかけろ」と言われる世界ではなく、
「命をかけたい」と心から思える世界に、私は生きたい。
あなたは何に命をかけたいですか?
それは誰かに命じられたものですか?
それとも、自分の内側から湧き上がったものですか?
空虚ではなく、空へ。
その先に、まだ見ぬ花が咲く──それが未来なのだ。
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