嫌われる勇気──「自分の人生」を生きる決意

書籍と向き合う

他人の目に、人生を明け渡していないか?

「誰かに嫌われたくない」
「波風を立てたくない」
「正しいと思われたい」

そんな気持ちに心を支配されながら、私はこれまでどれだけの選択をしてきたのだろう。
気づかないうちに、周りの期待に応えることばかりに意識が向いていた。
「自分はこうしたい」と言葉にすることよりも、
「これを言えばどう思われるか?」ばかりを考えていた。

そして、ふと気づく。
それは、自分の人生を他人の手に委ねているということではなかったか。

『嫌われる勇気』を読んだのは、そんな違和感が胸の中に芽生え始めた頃だった。

「どう生きたいか?」と問う勇気

この本に出会って、こう問われた気がした。

自分がどうしたいか?
それが、人生において最も大切な問いである。

シンプルだけれど、鋭い問いだった。
“どう思われたいか”ではない。“どう見られたいか”でもない。
“どうしたいか?”──それは、自分の内側から生まれる意志そのもの。

私は今まで、この問いを自分に投げかけてこなかった。
周囲の顔色、空気、立場、常識、常連、評価、数字……
そんなものの「外側」ばかり見て、いつの間にか「内側の声」に蓋をしていた。

だからこそ、この言葉が胸に響いたのだと思う。
「私は、何がしたいんだろう?」と。

思想を持つことの怖さと、誇らしさ

自分の思想を持つということは、ときに怖い。
なぜなら、それを表に出した瞬間に、他者の評価にさらされるから。
違和感をもたれるかもしれない。反対されるかもしれない。
場合によっては、孤立するかもしれない。

でも、だからといって思想を持たずに生きることは──
「自分を持たずに生きる」ということになる。

思想とは、自分の眼で世界を見るということだ。
流行に流されず、自分なりの言葉で語るということだ。
人と違っても、自分が信じる価値に立脚しているということ。

それは決して傲慢な態度ではない。
むしろ、「自分で責任を持って生きる」という謙虚な姿勢のはずだ。

嫌われるということは、自由の証明

「嫌われる勇気」とは、単に“無神経になる”ことではない。
むしろ、誠実に自分を生きるための決意表明だ。

嫌われる可能性があるということは、
「自分が自分として立っている」という証でもある。

誰にも嫌われない生き方は、きっと誰にも響かない生き方なのだ。
あらゆる評価に最適化された言葉や態度は、
自分の心には、何ひとつ残らない。

だから私は、自分で在ることを選びたい。
誰かに受け入れられなくても、私が私を受け入れる。
その覚悟があれば、きっと歩き続けられる。

それでも他者と繋がるために

皮肉なことだけれど、
「嫌われることを恐れない人」ほど、他者と本質的なつながりを持てるのだと思う。

他者の評価に過剰に依存しないからこそ、
純粋な関係性が生まれる。
「こう思われたい」という期待がないからこそ、
素のままの姿で関わることができる。

つまり、嫌われる勇気とは、
「ほんとうに人と繋がる勇気」でもあるのかもしれない。

私は、私の人生を生きていい

この本を読み終えたあと、少しだけ心が軽くなった。
それは、他人からの解放というよりも、
「自分が、自分を許した」という感覚だった。

「そうか。私は、私の人生を生きていいんだな」と。
この社会で、誰かと比べながら、
足並みを揃えながら、不安を抱えて生きている私たち。

でも、それでもいいんだ。
怖くても、迷っても、ためらっても──
自分の選んだ道を歩いているのなら、それは“尊い人生”なのだと思う。

おわりに──言葉を持ち、歩き出す

「自分がどうしたいか?」という問いに、
すぐに答えは出ないかもしれない。
けれど、その問いを立て続けること。
それこそが、自分の人生をつくる最初の一歩なのだと思う。

他人の声が大きく聞こえて、
自分の声がかき消されそうになるときもある。
そんなときは静かに目を閉じて、
心の奥に、そっと問いかけてみよう。

──私は、ほんとうはどうしたい?

この問いを忘れずにいたい。
そして、その答えを、思想として言葉にできる人でありたい。

それが、私なりの「嫌われる勇気」。
自分の言葉で、自分の人生を生きていくという、静かな誓いです。

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