1歳の息子とプールの時間
1歳の息子がプールで遊んでいた。
まだ言葉もたどたどしく、思考の輪郭も曖昧な彼は、水に触れてはしゃぎ、パシャパシャと音を立てて笑っていた。全身で水を感じながら、全力で遊んでいる。その姿を見ているうちに、私はふと、心の奥深くで何かに触れたような気がした。
「ああ、人って本来、こうあるべきなんだろうな」
そう思った。
これはまさしく、有時を感じた瞬間だった。
有時──存在としての「いま」
道元の『正法眼蔵』に「有時(うじ)」という概念がある。
これは「存在がそのまま時間である」という意味を持つ。
時間が過ぎていくものではなく、存在そのものが時を成しているという思想だ。
水と戯れる息子の姿は、まさにその「時」そのものだった。
彼は未来も過去も考えない。今この瞬間を、ただ全身で生きている。
「今」に、すべてがある。
その姿を見て、私のほうが思い出させられた。
時間は線的に流れるものではない。
今という瞬間の中に、すべての存在が凝縮されているのだと。
子どもは、自然現象と調和している
息子は何かを学ぼうとして水に触れているわけではない。
快楽を求めているわけでも、刺激を求めているわけでもない。
ただそこに水があり、体が反応し、笑顔になる。
自然と遊び、自然と繋がっている。そこに意識的な理解はいらない。
そこには「物理現象を感じている」ような、身体と自然との一体感がある。
水の冷たさ、波紋の広がり、光の反射──すべてが五感を通して身体に流れ込む。
まだ言葉を知らない彼だからこそ、言葉の枠組みにとらわれず、純粋な身体のままで自然と共鳴している。
全力で泣き、笑い、遊び、眠る──これが「有時」
息子を見ていて気づいたことがある。
彼は全力で泣く。
全力で笑う。
全力で遊び、全力で眠る。
そこに妥協はないし、途中で頭を挟んだりもしない。
今という瞬間に対して、全身で向き合っている。
こういう生のかたちに触れることこそが、有時に触れることなんだ──そう思った。
有時の感覚は、創造の源になる
私はふと考えた。
この「有時」の感覚に入ったとき、人はものすごい何かを生み出せるんじゃないかと。
アーティストや詩人、思想家やスポーツ選手。
彼らが何かを「生み出す」瞬間というのは、必ずしも理詰めではない。
むしろ、思考すら越えて、「降りてくる」ような瞬間がある。
それは、自分が時間に支配されているのではなく、時間そのものになるような感覚。
まさにそれが、有時だ。
だから、創造とは「考えること」ではなく、
「今ここに全存在を投げ出すこと」なのかもしれない。
言い換えれば、子どもに戻ることだ。
只管打坐としての育児
道元は「只管打坐(しかんたざ)」──ただひたすらに坐ることを説いた。
目的も成果も求めない。
ただ坐る。ただ今にいる。
そこにこそ、真理が顕れる。
子どもが水で遊ぶ姿を、私はただ見ていた。
無理に言葉をかけるでもなく、促すでもなく、ただ共にいる。
それは「育てる」というより、ともに“在る”ことだった。
そうして気づいた。
子どもと過ごす時間そのものが、私にとっての只管打坐なのかもしれない。
今を生きることの難しさと、今を生きることの豊かさを、
小さな背中が教えてくれている。
終わりに──「今」に還るということ
息子の笑顔の中に、有時を見た。
全力で生きる姿の中に、創造の核を見た。
彼はなにも教えようとはしていない。
ただ、彼が彼であることを通して、私に何かを伝えてくれている。
この世界は、本来そういうふうにできているのかもしれない。
意味の前に、命があり、時間があり、ただ在るという奇跡がある。
そして私は、今この瞬間に立ち戻るたびに思う。
創造とは、「問い詰めること」ではなく、
ただ、今ここにいることから始まるのだと。

  
  
  
  





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