※この記事では、「色」や「空」といった『色即是空』の概念を扱っています。
※「色」と「空」、そして『色即是空』の意味をより深く知りたい方は、以下の記事で詳しく解説しています。
夜にひらかれる、もう一つの世界
誰もが眠りにつく深夜──
テレビの音も止み、子どもたちの寝息が静かに部屋の空気に溶け込んでいく。
ようやく、私の思考が動き出す時間がやってくる。
この世界からもう一枚、透明な膜を隔てたような、もう一つの空間。
そこでは、時間がほつれて、現実という名の重力も薄まる。
思考という「空」に向かって、私はふわりと身を投げ出す。
そこにあるのは孤独ではなく、むしろ不思議な「つながり」だ。
一人だけれど、一人ではない
静かな夜。誰もいないはずの部屋で、私は誰かと語っている感覚になる。
それは、読んできた本の中の登場人物かもしれないし、
過去の友人、あるいはネットの向こうの誰かかもしれない。
言葉を交わしているわけではないのに、思考が重なり、絡まり、解かれていく。
そういう時間の中では、「一人」という言葉が意味を持たない。
これは、おそらく昼間には訪れない感覚。
周囲の目や音、責任、予定、他人の時間…それらが沈黙した後、ようやく私は「私」になる。
思考が加速する瞬間
思考の旅は、ときに暴走する。
何か一つのことを考え始めたはずなのに、気づけば全く別の問いに立っていたりする。
たとえば、「色即是空とは?」という問いから始まって、
「IUT理論てなんだろう?」に飛び、
さらに「言葉にならない想いを伝える方法とは?」に着地する──
そんな風に、脈絡のないようでいて、確かに一本の線が通った思考の川が、
夜の中を静かに、しかし勢いよく流れていく。
言葉にするという営み
その川をただ眺めているだけでは、いずれ消えてしまう。
だから私は、それを言葉にしようとする。
スマホに、ブログの下書きに。
流れてくる思考を、できるだけ取りこぼさずに、丁寧にすくい取る。
けれど、それは簡単なことではない。
言葉はいつも、思考に少し遅れてやってくるし、
完全に一致する表現など存在しない。
だからこそ、何度も書き直し、何度も読み返す。
思考と表現のズレを埋めていく作業こそが、私にとっての「創造」だ。
気づけば2時間、3時間が経っている
不思議なことに、そうやって言葉と格闘している時間は、まるで一瞬のように感じられる。
時計を見ると、すでに深夜2時、3時を回っていることもしばしば。
身体は疲れているはずなのに、頭の中は冴え渡っていて、
むしろ今からもう一つ記事を書けそうな気すらしてくる。
だが、身体は正直だ。
翌朝、目覚まし時計の音が鳴った瞬間に、そのツケは容赦なくやってくる。
目が重い。身体もだるい。
そして何より、思考が鈍い。
寝不足は思考の敵
寝不足の状態では、思考の川は濁る。
創造の泉は渇き、言葉は不明瞭になる。
頭が回らない。感情も不安定になる。
昨日あれほど鮮明だったアイディアも、霞がかかったように見えなくなる。
そんなとき、私はようやく思う。
「ああ、やっぱり睡眠は大事だ」と。
けれど同時に、
「じゃあ、今夜はちゃんと寝よう」とはなかなか思えないのが人間の不思議だ。
また、夜になれば、思考の誘惑がやってくる。
時計の役割に気づく
こうして、繰り返す夜と思索と寝不足の循環の中で、ある日ふと思った。
時計って、ただ時間を計るものじゃない。
空(思考)から現実へ戻るための“装置”なんじゃないか。
私たちは、時間に縛られて生きているように見える。
けれど、それは同時に、帰ってこられるという安心感でもあるのかもしれない。
もし、時計がなければ?
私は空を飛び続け、現実を見失ってしまうかもしれない。
思考に溺れて、自分の存在さえ曖昧になるかもしれない。
だからこそ、時計は私にとって「重力」なのだ。
現実という重力を思い出させてくれる、優しい束縛。
おわりに:思考と創造のリズム
夜の静けさ。
誰にも邪魔されない空間。
そして思考という「空」への旅。
それは時に、現実からの逃避でもあり、
また新しい現実を作るための“準備”でもある。
そしてその旅から戻ってきたとき、
私はいつも、時計の針を見て少しだけ微笑む。
「戻ってこられた」と思えるから。
そしてまた、そこへ旅立てるとわかっているから。

  
  
  
  






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