昔のゴミ屋敷番組を振り返る
一昔前、テレビでよく放送されていた「ゴミ屋敷」を扱った番組を思い出す。
家の中に足の踏み場もないほどモノが溢れ、悪臭や害虫までが写し出され、
ナレーションはどこか断罪めいていて、視聴者は眉をひそめて見ていた。
でも今になって、あの映像を思い出すと、まるで違う感情が湧いてくる。
あれは、この世の秩序が生んだものだったのではないか。
そう感じるようになった。
秩序と混沌は一体である
秩序とは、美しさであり、清潔さであり、計画や効率といった名のもとに進められる“整え”の力だ。
しかし、それが極端に進めば、「しがらみ」となる。
・〇〇すべき
・〇〇でなければならない
・〇〇というルールに従えないなら、あなたは異常だ──
そういった秩序の圧力が強くなればなるほど、個人の内面はそれに耐えかねて、
どこかで均衡を取ろうとする。
その裏側として、混沌が必要になる。
つまり、秩序と混沌は決して敵同士ではない。
むしろ対を成す存在であり、お互いを補い合い、調和することで世界は成り立っている。
ゴミ屋敷は“崩れた調和”ではない
では、ゴミ屋敷とは何なのか。
秩序から外れた失敗例か? 調和が崩れた末路か?
私はそうは思わない。
むしろ、秩序が極まりすぎた現代において、最後の最後に人がたどり着いた混沌の“調整点”のように思える。
あれは、秩序に押しつぶされそうになった人が、自分の中に「もうひとつの秩序」を築こうとした結果だ。
部屋に物が積み上がり、床が見えなくなっていく。
他者から見れば“無秩序”に見えるそれが、本人にとっては“安心できる唯一の秩序”なのかもしれない。
現代は、秩序があふれている
今の世の中は、秩序が多すぎる。
SNSには「正しい食事」「理想の部屋」「完璧な子育て」などが並び、
仕事ではタスク管理や効率化が求められ、
人間関係は「調和ともいえない空気を読め」と無言の圧力に晒される。
情報もルールも、整いすぎている。
その整いすぎた世界で、感受性の鋭い人ほど、息苦しくなる。
見えないしがらみの数だけ、心が重くなる。
世界を“ゴミ屋敷”に変えることで守るもの
秩序に耐えきれなくなって、自分の世界をゴミ屋敷に変える。
それは逃げではなく、「バランスの回復」なのだと思う。
ゴミ屋敷の中に身を置くと、誰からも指示されない。
片付けろとも言われない。
一つひとつのモノに囲まれることで、自分の「存在」を確かめているのかもしれない。
その人にとっては、それがこの世界との調和のかたちなのだ。
混沌を赦す視点へ
私たちは「混沌=悪」「秩序=正」と刷り込まれてきた。
でも、混沌もまた、人を生かす。
むしろ、人間の想像力や創造性は、きちんとした秩序の中よりも、
どこか散らかった机の上や、ふと目を閉じたときの混沌の中で生まれてくる。
混沌があるから、秩序は意味を持つ。
秩序があるから、混沌も光る。
その調和の中でこそ、人は自分らしく生きられる。
おわりに
ゴミ屋敷をつくる人を、ただ「ダメな人」と見るのは簡単だ。
けれど、もう少しだけ視点をずらしてみると、
そこには、「秩序に耐えきれなかった感受性」が見えてくる。
そしてその感受性は、今の世界が整いすぎているからこそ、生まれてくる。
秩序と混沌は一体であり、調和する。
どちらかを切り捨てることなく、どちらかだけを理想とせず、
その両方の間に立って、私たちは今日も暮らしているのだと思う。







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