生きる理由
人はなぜ生きるのか。
この問いは、古代から現代まで、多くの思想家・宗教家・哲学者が取り組んできた永遠のテーマだ。
しかし、どれほど時代を超えて語られようとも、その答えが“完全に与えられる”ことは決してない。
細田守監督の映画『バケモノの子』は、この普遍的なテーマに対して、驚くほどまっすぐで力強いメッセージを投げかけてくる。
――生きる理由は、誰かから与えられるものではない。
自分で見つけるものだ。
これは単なる映画の感想ではなく、人生の核心へと直結する洞察でもある。
母を失った少年が “意味の空白” を抱えるところから物語は始まる
主人公・蓮(九太)は、突然の母の死をきっかけに、生きる意味を喪失した状態で物語に放り込まれる。
大人たちの世界に馴染めず、どこにも所属できず、誰にも頼れない。
生きる意味が見えない人間の姿は、静かでありながら深く痛い。
その空白を埋めるように蓮は「渋谷」から「バケモノの世界」へと足を踏み入れ、熊徹という粗野で不器用な師匠と出会う。しかし熊徹は慈愛に満ちた父親でもなく、完璧な導師でもない。
怒鳴り、ぶつかり、時に放っておく。
つまり熊徹は、蓮に “答え” を与える存在ではない。
むしろ、蓮が自分で考えざるを得ない状況をつくる“きっかけ”にすぎない。
他者はヒントにしかならない──答えを握るのは自分自身
人生でも同じだが、周囲の人々は私たちに影響を与えることはできるが、そのまま生きる理由や意味を手渡してくれるわけではない。
映画でも蓮は、
・熊徹との喧嘩
・バケモノ世界の仲間たち
・人間界で出会う楓
・再び向き合わされる自分の孤独や怒り
といったさまざまな経験を通して“問い”を深めていく。
しかし、誰も彼にこう言ってはくれない。
「お前はこうやって生きろ」
とは。
誰かに理由を渡されることは、安心にはなるが、芯にはならない。
だからこそ蓮は、自分の内側で何かが形づくられるのを待つように、悩み、迷い、揺れ動く。
生きる理由は“外”にはない。内側にしか生まれない。
映画のクライマックスは、一郎彦の内に潜む闇――怒り、孤独、欠落――が襲いかかる場面だ。
蓮も持つ闇だ。
ここで象徴的なのは、蓮が手にするのは“剣になった熊徹”ではなく、「自分で選び取った意志」 だということ。
だからこそ折れない。だからこそ揺らがない。
だからこそ他者の言葉より力がある。
映画は言葉として語らないが、“意味とは、自分が決めたときにだけ価値を持つ”という哲学を美しく描いている。
自分で見つけた理由は、芯となり、人生の土台となる
人生において、理由や意味が外側から与えられることはある。
学校、家族、肩書き、社会的な評価。
それらは一時的な支えにはなるが、環境が変われば簡単に消えてしまう。
しかし、自分で選んだ理由は違う。
そこには痛みがあり、経験があり、時間があり、そして「覚悟」が刻まれている。
蓮が最後につかんだ生きる理由も、熊徹から生まれたのでも、楓に与えられたものでもない。
自分で見つけたからこそ、強い“芯”になった。
そしてその芯こそが、彼を闇から救い、未来へ押し出す原動力となる。
『バケモノの子』は、現代に必要な“自分で生きる力”を提示している
現代社会は、便利で、正解があふれ、多くの価値観が「理由」を与えてくれる。
・こう生きればいい
・こう働けば幸せになれる
・こういう人間になれ
・これが成功のモデルだ
しかしそれらは“外付け”の理由に過ぎない。
外付けの理由が壊れたとき、人は途端に弱くなる。
アイデンティティが崩れ、方向性を失い、闇が押し寄せる。
だからこそ今、“自分の内側から理由を生み出す”という生き方が強く求められている。
『バケモノの子』はそのことを、少年の成長物語という優しい形に包んで伝えてくる。
大人こそ胸に刺さる作品だ。
まとめ──生きる理由は“見つけてもらう”ものではなく、“見つけにいく”もの
生きる理由は自分で見つけなければならない。
生きる理由は与えられる物ではない。
自分で見つけた時にこそ、より強い芯となる。
この三行は、この映画の核心であり、人生そのものの真理だと思う。
私たちは誰かの生き方をなぞるために生まれてきたわけではない。
失われた意味を取り戻すためでもない。
自分がどうありたいかを、自分の足で探しにいくために生きている。
『バケモノの子』は、その旅路を力強く後押ししてくれる作品だ。






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