『奇跡の社会科学』との出会い
こんにちは。たきです。
今日は一冊の本を通して、自分自身の内側を深く見つめ直した時間について綴ります。
その本の名前は中野剛志著『奇跡の社会科学』。
読んでいる最中、何度もページを閉じては、静かに天井を見つめるような時間がありました。
心がざわつくというより、「いまの自分の立ち位置」を問われ続けているような感覚でした。
この文章は、その読後の“沈黙”の中から、ゆっくり掘り起こした言葉たちです。
自由は本当に、望んでいたものだったのか?
私たちは、自由を求めます。
誰にも縛られずに、自分で選び、自分で決める人生。
その響きには、美しさと正しさがあります。
でも、本当にそれは“幸せ”だったのでしょうか?
「自由に働けるようになった」
「どこにいても仕事ができるようになった」
「選択肢が増えた」
こうした変化の中で、私たちの生活は豊かになったはずでした。
でも、心のどこかにぽっかりと空いたような“孤”が残っていることに、気づいている人も多いのではないでしょうか?
選択肢が増えれば増えるほど、なぜか不安になる。
どこにも縛られていないのに、なぜか何かに追われている気がする。
それは、「自由になったはずなのに、自由でなくなっている」という現象そのものです。

孤にされた自由──その隙間に入り込むもの
自由を求めるという行為は、ときに「関係性を断つ」ことでもあります。
誰かに依存せず、自分の足で立つということは、裏を返せば「支えられない」ということにもなる。
それは美徳のように語られるけれど、現実にはとても冷たいものです。
そして、その“孤”にされた心の隙間を、
そっと、しかし確実に狙ってくるものがある。
それが、グローバリズムです。
グローバリズムは、「世界はひとつになれる」と言います。
「自由で、開かれた社会こそが、進歩だ」と語ります。
でも、その正体は、すべての価値を“交換可能なもの”に変える装置です。
家族の時間より、労働時間。
伝統より、効率。
愛より、論理。
私たちは、自分の大切なものを少しずつ、差し出すようにして手放してきたのかもしれません。
自由であることと引き換えに。
「色」に執着すれば、「空」になる
ここで私は、ふと仏教の言葉を思い出しました。
色即是空、空即是色。
これは、「目に見えるすべてのもの(色)は、実体がなく空である」という意味。
そしてその逆もまた真なり──「空から、形(色)は生まれる」。
自由を「形」にしようとするから、私たちは苦しくなるのです。
・理想の働き方
・理想の生き方
・理想の自分像
そういった“色”に執着することで、かえって自分を見失っていく。
「こうあらねばならない」と思えば思うほど、「本来の自分」が遠のいていく。
それは、自由の仮面をかぶった強迫に他なりません。
つながりを求めすぎることもまた、煩悩になる
自由だけじゃありません。
つながりもまた、現代社会においては一種の“商品”になっています。
「いいね」をもらう数
「フォロワー」の数
「共感」してくれる人の多さ
そうした“数値化されたつながり”を求めるあまり、
私たちはいつの間にか「人との関係」すら、“自己演出の場”にしてしまったのかもしれない。
そして、繋がるために無理をして、笑って、迎合して、
気づけばそこには「自分」がいない。
これは、自由を求めたときと同じ構造です。
「つながり」もまた、執着すれば煩悩になり、やがて空になる。
私たちに必要なのは、「問い」続けること
では、私たちはどう生きればいいのでしょうか?
自由も、つながりも、簡単に“空”になるのなら、何を信じればいいのか。
そのとき浮かんだ答えは、とても小さく、けれど確かなものでした。
それは、
「問い続けること」
です。
自由とは何か?
つながりとは何か?
関係性とは何か?
自分とは、誰か?
それらに「答え」を出すことではなく、「問い続ける姿勢」にこそ、人間らしさが宿る気がします。
完璧な自由も、完全なつながりも、きっと存在しません。
でも、その不完全さの中に身を置きながら、「関係性を編み続ける」こと。
それこそが、社会の“奇跡”なのだと思います。
空に、まれに咲く──問い続けるという花
すべてが“空”になってしまうような世界のなかで、
それでも関係性を手放さず、問い続ける姿は、美しい。
それはまるで、
どこまでも広がる空の中に、まれに咲く、一輪の花のよう。
その花は、すぐに散るかもしれない。
誰にも気づかれないかもしれない。
でも、それでも咲こうとする。
そんな花のように、
問い続け、編み続け、関係し続けること。
それこそが、私たちに残された、本当の自由なのかもしれません。
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