経済の論理を超えて──国家に「哲学」が必要な理由

社会と向き合う

いま、私たちはどこへ向かっているのか

空を見上げたとき、不意に胸に浮かぶ問いがある。
「私たちは、いまどこへ向かっているのだろう?」

成長率、GDP、株価、投資家の心理──
テレビやネットには、そんな数字が絶え間なく流れる。
私たちは、数字で未来を語ることに慣れてしまった。
しかし、その数字の奥に、人の暮らしや痛み、希望や不安があることを、いつのまにか忘れてしまってはいないだろうか。

政策とは、単なる手段ではない。
政策には、意思が宿るべきだ。
どんな社会をつくりたいのか、どんな未来を選びたいのか──
その「思想」や「哲学」が、今の国には圧倒的に足りていないのではないかと感じた。

主流派経済学の“正しさ”が見失わせるもの

主流派経済学は美しい数式と整ったモデルに支えられている。
市場は合理的に動き、人は損得勘定で行動し、自由競争こそ最適な資源配分をもたらす──
しかし、そんな「正しさ」は、現実の不確かさを切り捨てることで成り立っている。

現実はそんなに単純ではない。
感情があり、誤解があり、摩擦がある。
歴史や文化、地域の事情や人の絆が複雑に絡み合っている。
主流派経済学の導く「最適解」は、現実の一部分を切り捨てた上での正解だ。
その切り捨てられたところにこそ、人の痛みや暮らし、尊厳があるのではないだろうか。

グローバリズムが経済を「誰かのもの」にしてしまった

この経済学は、やがてグローバリズムと手を結んだ。
資本は国境を越え、モノもヒトも情報も自由に行き交う。
一見すれば開かれた世界のようだが、その「自由」は、力のある者にとっての自由だった。

グローバリズムのもと、国は「企業の競争力を高める場」と化した。
教育や医療、福祉、インフラは「コスト」として削られ、都市は再開発に飲み込まれ、地方は切り捨てられていく。
人々の暮らしは静かに、しかし確実に痩せ細っていった。

お金がすべてになったとき、社会から“血の通った願い”は消えてしまった。
何のために働くのか、誰のために稼ぐのか。
その問いに、私たちは今、答えられているだろうか。

本当に大切なのは「人」であり、「供給力」だ

私たちが本当に大切にしなければならないのは「人」である。
そして、人と人とが支え合う力──それが「供給力」だ。

供給力とは工場の稼働力だけではない。
医療現場で命を守ること、教育の場で未来を託すこと、農地で土地を守り食をつなぐこと。
これらはすべて人の営みから生まれている。

こうした力を本気で支える政策が必要だ。
民間任せにせず、単に市場に委ねるのでもない。
人を支え、人の可能性を育てる思想を政策の土台に据えなければならない。
だが今、その発想はあまりにも弱い。
供給力を企業の設備投資や技術革新だけで語ることは、社会の深部には届かない。

国としての意思と生命を取り戻すことの重要さ

経済や政策を論じるとき、私たちは「国」という存在を往々にして抽象的な単位として扱う。
しかし国は単なる数字の集合体ではなく、生きた「生命」だ。
そこには歴史があり、文化があり、言葉があり、何よりも「共同体意識」が息づいている。

この共同体意識こそが国家の意思の源泉であり、
数値や経済合理性を超えた「何か」を生み出す力となる。
人と人がつながり合い、助け合い、共に未来を紡ぐ力。
それは生き物のように、揺らぎながらも力強く息づいている。

だからこそ政策の土台には、この「国の生命」への敬意が不可欠だ。
経済成長や効率性に偏るだけでは、
共同体の根幹を傷つけ、やがて崩壊につながるだろう。

共同体意識が生む希望と責任

共同体としての国家は単なる個人の集まりではない。
個人を超えた絆や責任を伴う存在だ。
それは「私たち」という意識であり、社会の一員としての誇りや覚悟である。

だからこそ国は未来の世代に責任を負う。
目先の利益や数字に振り回されず、
豊かな生命を育み続ける「場」を守り続けること。
それが真の「供給力」であり、国の意思を体現することになる。

国家の哲学とは、生命の尊重に根ざすもの

こうした視点で捉えると、国家の哲学とは、
単なる政策論や経済学ではなく、
「生命」と「共同体」を尊重する思想であるべきだ。

人が支え合い、尊重し合うこと。
地域や文化を大切にし、未来へつなぐこと。
その基盤の上に初めて、経済や技術の話が成り立つ。

私たちはもっと堂々と、国としての意思や生命を語っていい。
それを忘れた時、経済は単なるお金のゲームに堕ちる。
それを取り戻した時、政策は「人間らしい社会」への道となる。

正解のない問いを、それでも抱き続けるということ

理想の実現は決して簡単ではない。
財源、制度、利害対立など越えるべき壁は多い。
それでも、問いを捨ててはならない。

「この社会をどんな場所にしたいのか」
「経済の先にどんな風景を描くのか」

問いはすぐ答えを返さない。
むしろ長い時間をかけて、私たちの姿勢を問い続ける。
哲学とは、その問いを引き受ける覚悟ではないだろうか。

空のように、確かな輪郭のない希望を見つめて

空は輪郭のない広がりだ。
その曖昧さの中に私たちは希望を見つける。
光と影が交錯し、雲が流れる空の下で、
問い続けることができる。

「このままでいいのか?」

国家が本当に必要としているのは、技術やテクニックではなく、
人を見つめるまなざしであり、社会のあり方を深く問い直す“思想の力”だ。

暮らしの根っこを見つめ直すために、いまこそ哲学が必要だ。
答えがなくとも、問い続けることが希望の第一歩だと私は信じている。

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