──『コメ消滅』から浮かび上がる、私たちの未来
「コメが消える」と聞いて、どれだけの人が本当の意味で危機感を覚えるだろうか。
炊飯器の中のご飯がなくなる、コンビニのおにぎりが棚から消える、という話ではない。
三橋貴明氏の著書『コメ消滅』は、そんな皮膚感覚に訴える話以上に、もっと深く、本質的な問いを投げかけている。
それは、“この国は、何を食べて生きていくのか”という問いであり、もっと言えば、
“この国は、何を支えにして、これからもこの場所に存在しうるのか”という問いである。
食料は、もっとも静かで、もっとも強靭な防衛線
戦争や災害が起きたとき、最初に問われるのは「食料が足りるか」だ。
それは単なる物資の問題ではない。
“食”が尽きるということは、“暮らし”が尽きることであり、“文化”が絶たれることでもある。
日本の食料自給率はカロリーベースで37%(※2025年現在)と言われている。
つまり、約6割以上を海外からの輸入に頼っている。
この数字の異常さに、私たちはあまりに慣れてしまった。
けれど、冷静に考えてほしい。
6割の命綱を、他人の都合に委ねている社会に、果たして“独立国”を名乗る資格があるだろうか。
経済制裁や戦争、輸送トラブルや気候変動。
世界のどこかで問題が起きれば、あっという間に食料は止まる。
武力で国は守れない。まず食がなくなれば、心が荒れ、暴力が生まれる。
それは“侵略”による崩壊ではなく、“内部からの崩壊”である。
一粒の米に、宇宙の全てが宿る
米を育てるには、水が要る。水を育てるには、山が要る。山を育てるには、人の手が要る。
一粒の米には、空の雲と、地の微生物と、人の暮らしの歴史が刻まれている。
つまり、食べるという行為そのものが、「宇宙との交信」なのだ。
現代の私たちは、口にするものの“背景”を忘れている。
野菜の旬を知らず、魚の産地も気にせず、栄養素と価格だけを追う。
それは情報としては便利かもしれないが、魂としては、あまりにも貧しい。
自然との関係を断ち切った食生活は、心の不安定を生む。
食べることで私たちは、自然と繋がり、時間と繋がり、自分のルーツとも繋がっていたはずだ。
だから、食の崩壊は、精神の崩壊につながる。

食を軽んじれば、文化も宗教もやがて崩れる
仏教においても神道においても、「食」は祈りであり、神事であり、感謝の儀式だった。
食事の前には「いただきます」と手を合わせる。
それは命を奪うことに対する謝罪でもあり、自然からの授かりものに対する敬意でもある。
しかし今、その所作すら消えかけている。
食事はただの“作業”になり、食材は“コスパ”で測られ、
手間暇かけて作られたものより、手軽に摂取できるものが好まれる。
食べ物が「商品」になった瞬間、
それは文化を支える柱ではなく、ただの「選択肢の一つ」に成り下がる。
そして選ばれなくなった食は、静かに消えていく。
地方の米農家、漁師、伝統料理、年中行事。
そうやって、国の“かたち”そのものが、じわじわと消えていくのだ。
「食べること」は、国をつくること
いま、この国の根本を揺るがすのは、外国からの攻撃でも、AIでも、インフレでもない。
それは「食を育むという行為から、私たちが遠ざかっていること」だと思う。
たとえ都会に住んでいても、小さなベランダで育てたバジルを摘んで食べること。
農家を支援するような買い物をすること。
おにぎり一つに「ありがとう」と思うこと。
そういう行動一つひとつが、「国を守る」ことと繋がっている。
なぜなら、国家とは制度の集合ではなく、「共有された生活の積み重ね」だからだ。
食卓を守ることは、国土を守ること。
日常の祈りを守ることは、文化を守ること。
子どもに食べさせる米を選ぶことは、その子がどんな世界に生きてほしいかを選ぶことでもある。
『コメ消滅』を読み終えて
「コメが消える」という警鐘は、
私たちの中にある“無関心”という病を映し出す鏡のように感じた。
けれどそれと同時に、こうも思った。
いま気づけば、まだ間に合う。
小さな一歩かもしれないけれど、「何を食べるか」を真剣に考え直すことで、
私たちは再び、自然と、社会と、未来と繋がり直すことができるのだと。
食べることは、生きること。
生きることは、繋がること。
繋がることは、世界をつくること。
静かに、そして確かに。
私たちの箸の先には、未来が宿っている。
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