はじまりは「ただいま」より早く
仕事を終え、家のドアを開ける。
まだ靴を脱ぎきる前から、娘の足音がぱたぱたと走ってくる。
「おかえり」の言葉が追いつく間もなく、彼女は今日あったことを語り始める。
「〇〇くんがね、ケガしたの。悲しくなったの。」
「お歌、歌ったの。」
そこには単なる出来事の報告ではなく、娘が一日中集めてきた「色」があった。
それは光の粒のように、彼女の中で輝きながら、今、言葉のかたちとなって私に渡される。
言葉に託された“空の色”
3歳の娘にとって、言葉はまだまだ未完成で、たどたどしい。
だけど、その不完全さがむしろ真っ直ぐで美しい。
彼女は一日を通して見上げた空の色を、感じた風の肌触りを、心に響いた音の響きを必死に掬い上げて、言葉として紡ぐ。
それはまるで、見えないキャンバスに一筆一筆、丁寧に色を重ねていく画家のようだった。
どんなに小さなことも、どんなに悲しいことも、彼女の心の中ではひとつの色となって輝き、それを形にして伝えようとする。
「おかえり」の瞬間、咲き誇る花
娘にとって、父の帰宅は日中に育んだ色たちを初めて披露する大切な瞬間。
そのため、毎日この時間を心待ちにしているのだろう。
彼女の言葉が次々にあふれ出るたび、部屋の空気がゆるやかに変わっていく。
まるで夏の陽射しがやわらかく降り注ぐひまわり畑のように。
言葉は単なる音ではなく、色であり、光であり、温度である。
そしてその一つ一つが、部屋の壁を照らす光となって、私の心をあたためる。
日常の中の非日常
現代の忙しい日常では、時間に追われ、心が疲弊しがちだ。
しかし娘の一言一言が、日々の喧騒から静かな避難所へと誘う。
3歳の娘が語る「悲しかった」「うれしかった」「寂しかった」という感情は、私にとって日常の中の小さな奇跡のようだ。
娘の言葉は、私にとってリセットボタンのようなもの。
無理に頑張りすぎていた心が、そっと解きほぐされる。
親子で紡ぐ「色の物語」
このやりとりは、ただの親子の会話ではない。
私と娘が共に紡ぐ、毎日の「色の物語」だ。
彼女が感じたことを色として受け取り、私がまたそれに応える。
それは見えない糸で繋がった小さな世界の創造。
この瞬間を繰り返すことで、娘は言葉の使い方や感情の表現方法を学び、私は父親としての感受性を磨かれる。
ひまわりの花言葉と娘の言葉
夏に咲くひまわりは、「明るさ」「元気」「憧れ」「敬意」といった花言葉を持つ。
娘の言葉もまた、そのひまわりのように、明るく力強く、時にそっと心に寄り添いながら、私たちの関係を豊かに彩ってくれている。
ひまわりが太陽に向かって真っ直ぐに咲くように、娘もまた、自分の気持ちに正直に、真っ直ぐに言葉を投げかけてくる。
それを受け取ることで、私は毎日が新しい希望に満ちていく。

言葉は“季節”を運ぶ
日々の生活のなかで、言葉は単なる伝達手段にとどまらない。
言葉は感情の色をまとい、季節を運んでくる。
娘の言葉が夏のひまわりのように鮮やかで温かいのは、彼女の体温と感性がそこに込められているから。
だからこそ、私は彼女の言葉を大切にしたい。
毎日変わる空の色を感じ取るその感性を、見守り、育てたい。
最後に──言葉の花を咲かせること
忙しい毎日、私たちはつい言葉を消費し、意味を急ぎがちになる。
しかし娘のように、言葉をひとつの花として咲かせられたなら、どんなに素敵だろう。
言葉の一つ一つに色をのせ、温度を与え、空気を満たす。
そうしたら、毎日がもっと豊かで、もっとあたたかいものになるに違いない。
娘が咲かせるひまわりの花は、私にそのことを静かに教えてくれている。
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