つながりと自立、その狭間にある祈り
夜中の静寂。
世界が眠りに沈み、人々が夢の中をさまよう頃、
どこかの家で、小さな命が泣き声をあげている。
それは、赤ん坊の夜泣きかもしれない。
あるいは、言葉を覚え始めた子どもが、怖い夢を見て泣いているのかもしれない。
あるいは、大人になった私たち自身の、心のどこかで響く小さな叫びかもしれない。
そんな夜に、
私たちは対応するのか、それとも、しないのか。
この問いは、一見すればただの育児のテクニックの話に見える。
けれどその奥には、人間のつながり、そして存在の根源的な在り方が
そっと、息を潜めているのではないだろうか。
親が子の夜泣きに「対応する」ということ
泣き声に気づき、目を覚まし、立ち上がり、子どものもとへと向かう。
暗がりの中で、小さな身体を抱き上げる。
やわらかいぬくもりと、まだ湿った頬。
この行為は、単に「泣き止ませる」ためのものではない。
それは、「ここにいるよ」「あなたの声は届いているよ」
と伝える、生身の行為である。
赤ん坊は言葉を持たない。
でも、感じ取っている。
誰かがいてくれるということ。
自分が、この世界に歓迎されているということ。
私たちはみな、「他者に応えてもらった記憶」によって、
少しずつ、安心と信頼の種を心の奥に育てていく。
夜泣きへの対応は、
その種に水を注ぐ、ひとつの祈りのようなものなのかもしれない。

一方で、対応しないという選択
しかし、夜中に泣き声がしても、
親があえて起きずに「見守る」という選択をする場合もある。
それは冷たい行動なのだろうか?
そうではない。
そこにもまた、別のかたちの“信頼”が息づいている。
「あなたは、ひとりでもこの世界を生きていける」
「あなたの中に、眠り直す力があると信じている」
そんなメッセージが、静かな不在を通して伝えられる。
対応しないという態度には、「放置」ではなく「尊重」がある。
自立への種が、そこで静かにまかれている。
ただし、この選択には注意がいる。
放っておくだけでは、人は孤立し、愛の感覚を失ってしまう。
だからこそ、対応しないあとに、もう一段階の「伝える」が必要だ。
宗教や思想、物語という“あとからのつながり”
対応しないことによって芽生える孤独。
その孤独の中にあっても、世界にはつながりがあるんだよと伝えるには、
“後からの言葉”が必要になる。
それが、宗教や思想であったり、
絵本や昔話、あるいは歌や日々の対話である。
「神様が見ているよ」
「君が眠っている間も、世界はやさしく見守っているよ」
「ひとりのように見えても、ちゃんとつながっている」
そうした“世界観の種”が、
夜泣きのあとにそっとまかれることで、
子どもは孤独を経験しながらも、世界への信頼を回復していく。
対応する愛と、対応しない愛
人間は誰しも、「応えてほしい」と願う存在だ。
同時に、「応えてくれなくても、自分で立ち上がりたい」とも願う存在だ。
対応すること。
対応しないこと。
それぞれは異なる種類の愛であり、どちらが優れているとは言えない。
どちらも、存在を肯定するという点で一致している。
「あなたはここにいていい」
「泣いても、泣かなくても、世界はあなたを見捨てない」
それを伝えたいがために、
人は夜中に起き上がり、または横たわったまま、
じっと問いと向き合うのだ。
夜中に起きる「問い」
夜泣きに起こされるとき、
実は私たち自身もまた、自分という存在の根本を問われているのかもしれない。
「私はこの子に、どう世界を教えるのか」
「この世界は、応えてくれる場所なのか」
「私はどこまで、他者を信じられるのか」
それは、ただの育児の悩みではない。
人間として生きていくことの本質的な問いに、そっと触れる瞬間だ。
そして、夜が明けていく
問いに正解はない。
どちらを選んでも、心が揺れることはあるだろう。
でも、もしそこに「あなたの存在を大切に思っている」という確かな気持ちがあるのなら、
きっと、それは伝わる。
夜泣きに対応する親も、
対応しない親も、
どちらも「子に世界を手渡す人」なのだから。
そして世界は、案外やさしく、
問いのすべてを抱えたまま、朝を迎えてくれる。
あなたは、ここにいていい。
それがこの世界で最初に伝えられるべき言葉かもしれません。
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