はじめての仕事場で
ある日、私は会社で、初めての場所で初めての業務にあたることになった。
勝手も道具の配置もよくわからず、何がどこにあるかも知らない。
周囲の動きを見ながら、ある人から簡単なやり方を教えてもらい、ひとまず作業に取り掛かった。
新しい空間というのは、まるで誰かの家に招かれたようなものだ。
居心地のよさも悪さもまだわからない。空気の流れをつかむには時間がいる。
だから私は、「空っぽの器」のような気持ちでそこにいた。空気を読みながら、慎重に動いていた。
小さな声と、大きな波
しばらくすると、作業スペースが少しずつ散らかってきた。
そんなとき、近くにいたある人が、私にこう声をかけてきた。
「これ、使ってますか?」
その声は、静かだが、何かを我慢しているようでもあった。
私は「いえ、使ってません」と、小さな声で返した。
するとすぐに返ってきたのは、少しトーンが強まった一言。
「じゃ、片づけていいですか?」
そしてさらに、
「これ、片づけますか? 私が片づけますか?」
と、やや畳みかけるような言い方で選択肢が投げかけられた。
私はその時、ふと“空間に波が立った”のを感じた。
言葉が空気を押してくる。空間の静けさが乱れる。
その瞬間、私の中で「何かがずれた」と、確かに感じた。
秩序の乱れが、調和を崩す
思えば、その人にとって、その仕事場は自分の「秩序」が守られている場所だったのだろう。
道具の位置、動線、スピード感。
そういったものが見慣れたリズムから外れると、内的な“調和”が乱れる。
その調和の乱れは、やがて言葉に乗って私に向かってきた。
でも、私はその波にすぐに反応しなかった。
少しだけ間をとった。強い言葉を返そうとする自分の内側を見て、踏みとどまった。
なぜなら、そのとき、こう感じたからだ。
「“空(想い)”がなければ、言葉には色がつかない」
つまり、ただ反応的に返してしまうと、私の言葉もまた濁ってしまう気がしたのだ。
観察者になるという選択
その瞬間、私は自分の役割を「関係性の中の観察者」として位置づけた。
何が起こっているのかを、分析するのではなく、感じ取ろうとした。
私は、ただ作業を続けた。言葉を挟まず、静かに、丁寧に。
すると、相手は私に対して「何を考えているのかわからない」と感じただろう。
おそらく、「この人は空っぽなんだ」と思われたかもしれない。
だから、自分の秩序を私の“空”に流し込もうとしたのではないか。
強いトーンの言葉で、空っぽな器に、自分なりの“整った色”を注ごうとしたのかもしれない。
空(思考)を色にする
私は、そこで意識を変えた。
自分の頭の中にある“空”を、ちゃんと「色」にしようと決めた。
つまり、自分の考えや不明点を、明確に「言葉」にすること。
「これ、どうやって使えばいいですか?」
「使ってみたんですけど、このあとどうしたら?」
「他にすることありますか?」
私の思考は、“色”を持って外に出はじめた。
すると、不思議なことに、相手の言葉のトーンが少しずつ和らいでいった。
圧ではなく、共有に変わっていった。
調和とは、どこにあるのか
私は思う。
人と関わるとき、「相手がどこで調和を保っているか」を見極めることは、
とても大切だ。
ある人は「空間の秩序」に調和を見出す。
ある人は「沈黙」に調和を見出す。
また別の人は「声のテンポ」や「予測可能な関係性」に調和を求める。
けれど、私たちは皆、違う色を持っていて、違う空を生きている。
だから、調和の基準もまた違っていて当然なのだ。
そして大事なのは、調和が崩れた瞬間に「それを整え直すこと」ではなく、
「なぜ崩れたのか、その“場”にどんな空気が流れていたのか」を観察すること。
空に戻る力
強い言葉、ぶつかる感情、空間の乱れ。
それらが起きたときに必要なのは、すぐに“整える”ことではなく、
一度“空に戻る”力だと思う。
相手がどんな空(思考)しているのかと自分に問う。
それはたぶん、「対話」ではなく「共鳴」に近い。
そうして声を発する。
相手の秩序を尊重しながら、自分を表現する。
それができたとき、仕事の現場であれ、家庭であれ、
私たちは“調和のある空間”を共につくることができる。
おわりに
あの日の、小さなやりとりを私は忘れないと思う。
それは単なる作業の指示でもなく、ただの言い争いでもなかった。
それは、異なる調和がぶつかり合いながら、
やがて互いの“空”が共鳴する、小さな対話だった。







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