バベルの塔と問いの喪失 〜空に還り、色が散ってゆくとき〜

社会と向き合う

※この記事では、「色」や「空」といった『色即是空』の概念を扱っています。
※「色」と「空」、そして『色即是空』の意味をより深く知りたい方は、以下の記事で詳しく解説しています。

人類が一つだった時代に何が起きたのか?

バベルの塔の物語は、旧約聖書『創世記』第11章にこう記されている:

「全地は一つの言語、一つの話し言葉であった。」

人々は「天まで届く塔」を建てようとした。
目的はこうだ。

「我々の名をあげ、全地のおもてに散らされることのないようにしよう」

団結して、高く、高く、上へ。

このとき、人類は「同じ言語」で「同じ方向」を向き、
大きな夢を共有していた。

しかし、その団結は、果たして本当に“善”だったのだろうか?

神が崩したのは塔ではない。問いだったのかもしれない

神は言葉を乱した。
そして人々を散らした。

「彼らは一つの民であり、皆同じ言葉を話している。これでは彼らがしようとすることは、何でも妨げられなくなる。」

この言葉をどう捉えるか。

「神に挑んだ人間への罰」?
それとも、“統一されすぎた世界”に対する制動

ここには、単なる神罰ではない、人間の精神の危うさが描かれているようにも思える。

ひとつの言葉。
ひとつの価値観。
ひとつの目的。

それはある種の「快適さ」であり、「安心感」だったかもしれない。
だがその快適さは、人間の問いを奪ってしまう力を持っていたのではないだろうか。

「言葉が違う」ことの意味

神は言葉を乱した。
ただ単に「通じなくなった」のではない。

言葉が違うということは、世界の捉え方が違うということだ。

  • 人と人の距離をどう保つか
  • 自分をどこに置くか
  • 感情をどう表現するか

すべてが、言葉とともに違ってくる。

つまりバベルの塔の崩壊とは、世界が「一つの世界」から「複数の宇宙」へと分かれていった瞬間だったとも言える。

色が散り、空に還る

東洋の思想では、形あるものを「色」、関係性や想いを「空」と呼ぶ。

バベルの塔が崩れたとき、そこに残ったのは形ではなく、空だった。
その空から、色は世界に散っていった。
言語、文化、宗教、生活、感性──
あらゆる色が、空から生まれ、広がっていった。

これはまさに「色即是空 空即是色」の動きだ。

一色の支配を神は拒み、
色の多様さへと還らせた。
それは破壊ではなく、祝福された混沌だったのかもしれない。

統一の欲望と、問いの喪失

それでも人間は、「一つに戻ろう」とする。

  • すべての人に通じる言語
  • 世界標準の教育制度
  • AIによる価値の最適化
  • 企業による情報の一元支配

これは、「進歩」かもしれない。
だが同時に、「問いの喪失」でもある。

『夜と霧』に見る、「問う力」が失われた世界

ヴィクトール・フランクルは、アウシュビッツ収容所で「生きる意味」を問い続けた。

「問いのない人間は、生きられない。」

世界が統一され、効率化され、最適化されるほど、
人間は「なぜ?」と問わなくなる。

だって答えが「外」にあるのだから。

でも、本当の意味は、外ではなく、内側にしか芽吹かない。

混乱ではなく、調和へ

ここで注意したいのは、
「調和」と「統一」は違うということ。

  • 統一とは、違いをなくすこと。
  • 調和とは、違いが共に在ること。

神がバベルの塔を崩したのは、
統一の危うさを知っていたからだ。
統一の先には、問いの死がある。

あなたの中の塔は、崩れていい

この世界に生きていると、
「正しさ」や「効率」や「標準」に合わせることが、当たり前になってくる。

だけどその中で、ふと苦しくなることがある。

もしかしたら、それは「自分の中の塔」が高くなりすぎたサインなのかもしれない。
そしてその塔が崩れたときこそ、
空が現れ、問いが芽吹き、色が立ち上がる。

おわりに:空にまれに咲くもの

神がバベルを崩したとき、世界には色があふれた。
それぞれの人が、それぞれの言葉で、それぞれの問いを持つようになった。

その問いは、答えではない。
生きているということそのものだ。

空のように透明で、
色のように豊かで、
その“まれに咲く”ものが、私たちの人生なのだと思う。

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