言葉の力
言葉は時として刃となる。
誰かを斬ることも、守ることもできる。
だが、いつ刀を抜き、いつ鞘に納めるべきか──その判断は誰に委ねるべきだろうか。
文章にも同じことが言える。
鋭利な言葉も、遠回りする言葉も、書き手の意図次第で世界を切り開く。
このことを意識すると、文章は単なる情報ではなく、力を持った存在になる。
ここからは、文章における「刀」と「芸」の違いを、遠回りの価値とともに考えてみたい。
そしてまず、「刀を抜く文章」が持つ力と危険性について見ていこう。
刀の文章
以下は、「1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書」に収められた、
藤沢秀行氏の言葉「勝負にこだわるな、芸を磨け」を読んだ感想である。
勝負にこだわれば、行き着く先は資本勝負だ。
金、才能、時間、体力、肩書き――持っている量で、結果は決まる。
力のない者が、既存の市場で闘っても、結果は敗北だ。勝負にこだわる者――金や権威に縋る者には芸がない。
だから土俵から降りることもできず、敗北の影に生き続けるしかない。だが、芸がある者は違う。
自ら市場を切り拓き、比べられない場所に立つ。
金や権威は役に立たない。迷う。
不安になる。
現実感は消える。
夢の中を歩くようで、正直つらい。それでも、万物はそうやって生き延びてきた。
一直線の勝者の道ではない。
無数の遠回り、迷走、寄り道の積み重ねが、この世界を支えている。つまり、権威に縋る者は収奪されるだけだ。
刀を抜く文章は、正しいが危ない
勝負の構造を一気に言語化し、言い切る。
それは、刀を抜く文章だ。
資本勝負をしている者に対して、その切れ味は鋭い。
論理は正確で、迷いがない。
読む者の甘さや幻想を、一瞬で断ち切る。
しかし、刀には必ず斬るべきタイミングがある。
読む側の準備が整っていなければ、その言葉は衝突を生む。
防御されれば争いになる。
未熟な状態で受け取れば、自分を傷つける。
立場が違えば、相手を殺す言葉にもなりうる。
刀の文章は、正しいからこそ、人を殺してしまうことがある。

芸の文章は、判断の時刻を渡す
同じ内容でも、まったく別の書き方がある。
勝負にこだわれば、必然的に力比べになる。
それでは、結果まで一直線で面白くない。芸とは、その一本道からあえて外れ、遠回りすることだ。
そうすれば局面は難解になる。
難解になれば、力比べの土俵から降りることができる。そこで初めて、生きる道が立ち上がる。
しかし、遠回りは自分自身をも迷わせる。それでも、長い時間をかけて磨いてきたものがあれば、
夢か現かもわからない場所を歩くことができる。その足跡こそが、この宇宙を成り立たせているのだ。
同じ構造の文だが、ここには命令がない。
判断するのは、書き手ではない。
読む側のタイミングに、すべてを委ねている。
今は何も起きなくてもいい。
数年後、ふと思い出されればいい。
ある日、どうにも苦しくなったときに、「ああ、そういう道もあったな」と思い出されればいい。
芸の文章は、言葉を今、作用させようとしない。
だから衝突しない。
言葉も死なない。
相手を殺すこともない。
なぜ遠回りしなければならないのか
遠回りとは、逃げではない。
それは、言葉の速度を落とすことだ。
一直線の言葉は速すぎる。
速すぎる言葉は、必ず何かにぶつかる。
遠回りの言葉は、相手の人生の中で、自然に重なる瞬間を待つ。
その間、書き手は不安になる。
手応えも、評価も、現実感もない。
夢の中を歩いているようで、正直つらい。
それでも、遠回りする。
なぜなら、言葉を生かしたいからだ。
刀を持っているから、芸ができる
誤解してはいけない。
芸の文章は、刀を持たない者の文章ではない。
世界の残酷さを知っている。
資本や勝負の構造を、冷静に理解している。
本気で斬れば、相手を殺せることも知っている。
そのうえで、斬らない。
判断の時刻を、相手に渡す。
刃を、相手の人生に預ける。
それが芸だ。
刀を持たない遠回りは、ただの逃避になる。
刀を持った者の遠回りだけが、選択になる。
言葉の倫理としての遠回り
刀の文章が必要な場面は、確かにある。
だが、生きている途中の人間にとって、常に刀を向けられる世界は、あまりにも過酷だ。
だから私は、刀を鞘に納めたまま、遠回りする文章を書きたいと思っている。
一直線の勝者の道ではなく、無数の迷走や寄り道によって、万物は生き残ってきた。
言葉も、同じだ。
切ることができるからこそ、切らない。
今ではなく、いつかのために置いておく。
正に、遠回りしなければならないのだ。






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