時間が道具であることを、私たちは忘れた
時間は、本来、観測するためのものだった。
この世界がどう巡っているのかを知るために。
いつタネを撒くべきか。
いつ刈り取るべきか。
いつ腹が減り、いつ眠るべきか。
時間とは、世界を読むための目盛りだった。
それは決して厳密なものではなかった。
「そろそろ」「まだ」「もう少し」。
太陽の高さ、風の匂い、土の湿り気。
身体の感覚と結びついた、やわらかな指標だった。
だが、いつからだろう。
時間は、観測される道具に変わってしまった。
人が時間を使うのではない。
時間が、人を使う。
時間が主体になった社会
現代において、時間は中立ではない。
- 何分で終えたか
- 何歳で達成したか
- どれだけ早く、どれだけ詰めたか
これらはすべて、時間に対する従順さを測る指標だ。
効率化とは何か。
それは「人を大切にすること」ではない。
時間の都合に、人と命を合わせることだ。
評価とは何か。
それは能力を見ることではない。
時間にどれだけ最適化されたかを点数化することだ。
こうして、時間は単なる尺度ではなく、人間を選別する装置になった。
観測される側に落ちた人間
本来、観測する主体は人間だった。
時間を見て、
世界を理解し、
命をつないでいた。
だが今は違う。
人は、
- 勤務時間で管理され
- 生産性で測られ
- 年齢で区切られ
- 速度で価値を決められる
人間は世界を見ていない。
時間に見られている。
遅い命、
回り道の命、
立ち止まる命は、
「非効率」という一言で切り捨てられる。
そこに悪意はない。
ただ、システムがそう設計されているだけだ。
だからこそ、残酷なのだ。

なぜ人は病むのか
人が病む理由は、ストレスでも、根性不足でもない。
身体は「今」しか生きられないのに、意識だけが時間に引き裂かれているからだ。
- 過去への後悔
- 未来への不安
- 比較による焦り
これらはすべて、「今ここ」には存在しない。
時間という概念を持ったことで、人は存在しない痛みを抱えられるようになった。
そして、その痛みを解消するために、さらに効率化を進める。
完全な自己増殖だ。
手仕事が消えた理由
手仕事は、時間に逆らう。
遅い。
ムラがある。
無駄が多い。
だがそれは、世界を観測しながら生きている証拠でもある。
木目を見て、土を触って、人の癖を感じ取る。
そこでは、時間は主役ではない。
だから手仕事は、時間が神になった社会では「非合理」として消えていく。
時間は、道具でしかない
忘れてはいけない。
時間は自然法則ではない。
人間が作った道具だ。
道具は、使えば役に立つ。
だが、使われれば人を壊す。
時間も同じだ。
未来を考えるために使うなら、薬になる。
評価と管理に使えば、毒になる。
今の社会は、
明らかに後者に傾いている。
もう一度、観測する側へ
必要なのは、時間を捨てることではない。
時間を、道具の位置に戻すことだ。
- 空を見る
- 季節を待つ
- 腹が減るまで働く
- 疲れたら休む
そんな当たり前の営みを、「非効率」と切り捨てないこと。
時間を見て生きるのではなく、世界を見て、生きる。
時間は、人を評価する神ではない。
この世を理解するための、ただの目盛りにすぎない。
それを思い出したとき、人はもう一度、病まなくていい場所に戻れるのだと思う。






コメント