かつての信用創造と、今の主語
かつて日本において、「信用創造」の主語は明確だった。企業である。
銀行は企業に貸し、企業は設備投資を行い、雇用を生み、賃金として家計に分配する。未来の成長が借金の担保であり、失敗のリスクは資本側が引き受ける。それが戦後日本の成長モデルであり、資本主義の教科書的な循環だった。
しかし今、その主語は静かに、だが決定的に入れ替わっている。
信用を生み出しているのは誰か。
リスクを負っているのは誰か。
その答えは、もはや企業ではない。
信用創造とは何か──なぜ「主語」が重要なのか
信用創造とは、銀行が誰かに貸し出しを行うことで、新たなお金(預金)を生み出す仕組みのことを指す。
一般に「銀行は集めた預金を貸している」と思われがちだが、実際には順序が逆だ。
- 銀行が融資を実行する
- 同時に、その金額分の預金が口座に記録される
- こうして、市中に存在するお金の総量が増える
つまり、借り手が現れた瞬間に通貨が生まれる。
このとき重要なのは、
- 誰が借りているのか
- 何を返済原資としているのか
である。
成長期の企業融資であれば、返済原資は将来の付加価値だ。新しい商品やサービス、生産性の向上が信用を裏付ける。
一方、家計融資の場合、返済原資は賃金である。
賃金が伸びない社会で家計が信用創造の主体になるということは、未来の成長ではなく、個人の人生時間そのものを担保に通貨が生まれているということを意味する。
信用創造の「主語」とは、単なる借り手の違いではない。
それは、
- 誰がリスクを負うのか
- 社会がどこから未来を切り出しているのか
を示す、極めて政治的で思想的な問題なのだ。
企業が借りなくなった国
90年代以降、日本企業は借りなくなった。
バブル崩壊と金融危機を経て、企業経営の最優先事項は「成長」から「生存」へと変わった。借金は攻めの武器ではなく、避けるべきリスクとみなされるようになった。
内部留保は積み上がり、現預金は増え続ける。設備投資は抑制され、新規事業は慎重になり、賃金はコストとして管理される。
日本銀行がどれほど金融緩和を行っても、企業は前に出ない。
金は余っているが、使われない。
金融機関が失った「本来の貸し先」
銀行の側から見れば、これは異常な状態だ。
本来、銀行は企業にリスクマネーを供給し、経済の血流となる存在だった。しかし、借りない企業に無理やり貸すことはできない。
結果として、銀行は二つの選択肢を持つことになる。
- 国債を買う
- 家計に貸す
前者は安全だが、利回りは低い。後者はリスクがあるように見えて、実は極めて安定している。
こうして、信用創造の矛先は家計へと向かった。
家計が信用創造の主体になるという転倒
住宅ローン、消費者ローン、クレジット分割、リボ払い。
低金利政策のもとで、国民は人生最大の借金を背負うことを「合理的な選択」として受け入れるようになった。
ここで起きている構造を、あらためて整理してみよう。
- 銀行が国民に貸す(信用創造)
- 国民は住宅や耐久消費財を購入する
- その支出が企業の売上になる
- 企業は利益を内部留保し、賃金は抑制される
- 国民は長期にわたって債務を返済する
信用は確かに生まれている。
だが、その返済原資は「将来の成長」ではない。
伸びない賃金と、削られる生活時間である。

個人がどう立ち回るか──搾取され続けないために
このままでは、信用創造の果実は働くだけの国民には届かない。では、個人はどう立ち回ればよいのか。
- 資本家側に回る
- 株式、不動産、金融商品への投資は、信用創造の果実を自分の手元に引き寄せる手段になる。
- 資本家は借金の主体ではないが、既存の通貨・信用を活用してさらに資産を増やせる。
- 借金の主体となることを意識的に選ぶ
- 住宅ローンや教育ローンも、戦略的に活用すれば将来の価値増加につなげられる。
- ただし返済能力を超えない範囲で、人生の時間や自由を過度に縛られないことが前提。
- 知識と情報への投資
- 経済構造や信用創造の仕組みを理解すること自体が、リスク管理につながる。
- 誰に果実が渡り、誰がリスクを負っているかを把握することは、戦略的な立ち回りの第一歩である。
- 複数の収入源を持つ
- 賃金だけに頼らず、投資収益や副収入を確保することで、搾取され続ける構造から少しずつ距離を置くことが可能になる。
このように個人は、単なる消費者・債務者として固定されるのではなく、戦略的に立ち回ることで、経済構造の中で自分の主語を持つことができる。
主語を取り戻せるのか
信用創造の主語が誰であるかは、その社会が誰にリスクを負わせているかを示す。
今、日本ではその主語が国民になっている。
この構造が続く限り、私たちは成長ではなく、返済のために生きる。
問いはシンプルだ。
この負債の主語を、このまま引き受け続けるのか。
それとも、どこかで書き換えるのか。
個人が立ち回ることで、主語を取り戻す余地はまだ存在する。
信用創造の主語を問い直すこと。
それ自体が、すでにこの構造への小さな抵抗なのかもしれない。







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