三人寄れば文殊の知恵――知恵しか出ない落とし穴

言葉と向き合う

「三人寄れば文殊の知恵」の落とし穴

日本人なら、ほぼ無条件に
「人数を集めれば良い考えが生まれる」
という意味で受け取っている諺だろう。

だが、この言葉をそのまま信じてきた結果、私たちはある奇妙な現象に慣れすぎてしまった。

知恵は出るのに、誰も動かない。

文殊の知恵とは、本来「行動のための知恵」だった

まず確認しておきたい。

文殊菩薩は、単なる「頭のいい神様」ではない。
迷いを断ち切る剣を持ち、
正しさを見抜き、
決断へ導く存在である。

つまり文殊の知恵とは、行動に接続された知恵の象徴だった。

ところが人間は、この諺から都合の悪い部分をきれいに削ぎ落とした。

剣は消え、
決断は消え、
行動は消え、

残ったのは、言語化された「もっともらしさ」だけだった。

会議室に並ぶホワイトボード、
スライドに詰め込まれた完璧な論理、
丁寧に磨かれた言葉たち。

それらは確かに美しい。
だが、それは行動を約束しない美学だ。
誰も、剣を握ろうとはしない。

三人という人数が生む「空気」

三人という人数には、不思議な力がある。

一人なら、逃げ場がない。
二人なら、責任か対立が生まれる。
三人になると、「合意っぽい何か」が自然発生する。

この瞬間、何が起きるか。

誰かが意見を言う。
誰かが補足する。
誰かが「それいいですね」とまとめる。

完成するのは、完成度の高い結論。
誰もが納得しやすく、論理も美しい。
しかし、よく見るとそこには実行主体が存在しない。

知恵が出るほど、覚悟は分散される。

「みんなで決めた」
「合意は取れている」
「間違ってはいない」

その言葉が並ぶほど、
「じゃあ誰がやるのか?」という問いは、どこにも置かれなくなる。

結果として、正しい、論理的、反論しづらい。
しかし、誰も動かない。
何も変わらない。
ただ、静かな、文殊っぽい知恵だけが残る。

会議の魔力と覚悟の消失

私たちは、ついこう考えてしまう。

「誰かがやってくれるだろう」
「まだ十分に議論していない」
「もう少し意見を集めたほうがいい」

会議が増え、資料が洗練され、言葉が整うほど、現場から行動が消えていく。

それは怠慢ではない。
構造的な現象だ。

三人寄れば、知恵は増える。
しかし、責任も同時に分散される。
覚悟は希釈され、剣は誰の手にも渡らない。

会議室の隅で、誰も手を上げないまま時計だけが進む。
誰も批判される覚悟を持たない。
誰も間違うリスクを取らない。
美しい議事録だけが残る。

現代版「三人寄れば文殊の知恵」

今の社会でこの諺を翻訳すると、こうなるかもしれない。

三人寄れば文殊の知恵

意思決定しないための最適解が生まれる

会議は長くなり、資料は完璧になる。
メールは丁寧になり、Slackでは議論が延々と続く。
表面的には進んでいるように見える。
だが、現場は静まり返り、行動は消えていく。

これは怠慢ではなく、構造的な現象である。
責任の分散、覚悟の希釈、合意の幻想。

文殊が持っていた「剣」を、誰が持つのか。

必要なのは、剣を抜く個人

ここで考えたいのは、知恵そのものよりも、その使い方だ。

必要なのは、さらに知恵を集めることではない。
必要なのは、決めること。

不完全でもいいから決める人。
責任を引き受ける人。
批判される覚悟を持つ人。

知恵だけでは、世界は変わらない。
行動する覚悟こそ、文殊の知恵の本質だ。

皮肉としての再定義

だからこの諺は、こう読み替えたほうが現実に近い。

三人寄れば文殊の知恵
――ただし、動く者はいなくなる

あるいはもっと端的に言えば、

知恵は共有されるが、覚悟は誰のものでもなくなる。

知恵があることと、生き延びることは、同義ではない。
動く者がいない知恵は、ただの美しい沈黙だ。

会議室の片隅で埃をかぶった文殊の剣は、今日も抜かれないまま、静かに存在している。

誰もそれに手を伸ばさず、誰も責任を取らず、
そしてまた次の会議が始まる。
誰かが資料を磨き、誰かが議事録を整え、
誰も行動しないまま、時間だけが過ぎていく。

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