200記事目に、立ち止まってみる
このブログは、今日で200記事目を迎えた。
何かを達成した、という高揚感はあまりない。
バズった記事もないし、人生が劇的に変わったわけでもない。
それでも、200という数字を前にして、
一度立ち止まり、今の自分の立ち位置を確かめてみたくなった。
高さを競う世界の外側で
世の中には、一つの分野を垂直に登り詰め、その高さを競う人たちがいる。
マラソンのトップランナー、
第一線を行く研究者、
あるいは高度なシステムを構築するエンジニア。
彼らは、同じ地図を見ながら、
同じ山を、より速く、より高く登っていく。
私は、彼らのような「トップ層」には敵わない。
サブ50(2時間50分2秒)で走っても、
200kmのウルトラマラソンを完走しても、
自転車で日本を横断しても、
その先には必ず「次元の違う怪物たち」がいた。
10年以上、研究開発の分野に身を置き、
AIやGASでアプリを自作しても、
上を見ればキリがない。
どの分野でも、私は「そこそこ」の位置にいる。
突出はしていないし、頂点でもない。
だが最近、ようやく気づいた。
私は、誰かが作った山の標高を競っているのではなく、
自分だけの山を、横に広げていたのではないか、と。
「好奇心」という生態系
私の山は、それほど高くはないかもしれない。
しかし、その内部には驚くほど多様な資源が眠っている。
- 限界まで身体を追い込んだ経験という、壊れにくい地層
- 家計分析やアプリ開発という、生活を支える舗装路
- 夏目漱石の『こころ』を読み解くような、深い思索の風
一見すると、まったく関係なさそうな要素たち。
だが、私という山の中では、それらは一つの生態系として繋がっている。
原材料データベースから食品表示を自動生成するアプリを作る。
LINE botで日常のルーチンをシステム化し、
家計を構造的に把握する。
どれも派手ではない。
だが、自分の人生を自給自足で運転するための仕組みだ。
200記事を書いてきて分かったのは、
このブログもまた、その生態系の一部だということだ。

「普通の父親」という、最高の擬態
麓から私の山を見上げる人たちには、
そこにある資源のほとんどは見えない。
家族にとっても、職場にとっても、
私は「そこら辺にいる普通の男」であり、「普通の父親」だ。
ブログで思想や哲学を綴っていることも、
200kmを走破する精神性が日常の判断を支えていることも、
あえて語ることはない。
言葉にした瞬間、
それは評価や比較の対象になってしまう。
だから私は、
自分の中にだけある「知の宇宙」を、
静かに耕し続けている。
「もう二度とやりたくない」と笑えるほどの過酷な経験は、
静かな日常のスパイスになる。
限界を知っているから、無理をしない。
壊れたことがあるから、壊れそうな兆候に気づける。
標高よりも、多様性を
200記事書いて、ようやく腑に落ちた。
誰かに勝つための高さはいらない。
それよりも、
- どれだけ多様な視点を持てるか
- どれだけ異なる世界を往復できるか
- どれだけ自分の生活に還元できるか
そのほうが、人生はずっと豊かになる。
新しい技術(AI)を試し、
古い知恵(哲学)を読み直す。
遠回りに見える道が、
気づけば「自分にしかない地形」になっている。
200記事目に思うこと
このブログに、派手なゴールはない。
この先も、特別な終着点はたぶん来ない。
それでも、
この山はちゃんと成立している。
誰に気づかれることもなく、
今日も淡々と歩いていく。
それが、
200記事書いてきた今、
私が選び続けたい
「普通の男」としての、
最高に贅沢な生き方だ。







コメント