赤ちゃんは、空に生きている──この世の真理と赤ちゃんの姿を重ねて

家族と向き合う

空の中に生きる存在

赤ちゃんを見ていると、「この子は世界の中心にいる」と思うことがある。
そしてその“世界の中心”という感覚は、仏教で言われる「空」に非常に近い。

赤ちゃんはまだ言葉を持たない。
欲望や感情を伝える手段も限られていて、泣くことと笑うことのあいだに、明確な論理はない。
泣いていたかと思えば急に笑い出すし、寝ていたかと思えば突然叫ぶ。
秩序や常識のフィルターを一切通さない、生の感情がそこにある。

この混沌。
この理不尽。
この秩序なき流れこそが、「空」なのではないかと思う。
仏教でいう「空」とは、何も存在しないという意味ではなく、固定された実体がないという意味だ。
すべては縁起によって、関係性によって、絶え間なく変化している。
赤ちゃんという存在はまさに、それをそのまま体現しているように見える。

成長とは、「色が付く」こと

だが人は、成長していく。
言葉を覚え、時間の流れを意識し、社会の秩序に馴染んでいく。
この世界のルールを知り、空気を読み、人に合わせることを学ぶ。

そうして「言葉(=色)」が付いてくる。
無名だったものに名前をつけ、混沌だった世界に秩序を与える。

もちろん、それは生きるうえでとても大切なことだ。
だが同時に、言葉を持ったことで失われる“何か”があることも、私たちは薄々気づいている。

赤ちゃんの時に当たり前だった“空”の感覚は、
知らぬ間に、遠ざかっていく。
秩序、言語、論理、常識……それらに埋もれていくうちに、空という「揺らぎ」は意識されなくなる。

赤ちゃんは、空の感覚を想像させてくれる

けれど、赤ちゃんのそばにいると、ふと“空の感覚”を思い出す瞬間がある。
それは、言葉で説明できない何かに触れたときだ。

例えば、全力で泣いていた赤ちゃんが、ふいにこちらを見て、にっこりと笑う。
その一瞬に、時間も意味も消えて、ただ「在る」だけの空間が立ち上がる。

「ああ、こういうことだったのかもしれない」と、身体の深いところで理解するような体験。
それは、言葉ではなく感覚で捉える“空”であり、
理屈ではなく直感で理解する“真理”だ。

少子化と、空の喪失

しかし、現代の日本は少子化社会だ。
赤ちゃんに触れる機会が減っている。
つまり、空の感覚に触れる機会が減っているとも言える。

私たちが日々向き合っているものは、効率や論理やルール、言語化できるものばかりだ。
子どもに触れない社会は、無意識に“空”を遠ざけ、
どこか息苦しく、世界の本質から離れてしまうのかもしれない。

社会全体が「色」に寄りすぎている。
「空」を忘れている。

だから、発想が生まれにくくなる。
イノベーションが起きにくくなる。
新しい秩序を生むには、一度「空」に戻る必要がある。
しかし、そこにアクセスする術を社会全体が失いつつあるのだ。

「空の入り口」としての赤ちゃん

私は、赤ちゃんの存在が「空の入り口」だと思っている。
社会で色をまといすぎた私たちが、赤ちゃんと向き合う時、
一度その色を脱ぎ捨て、空へと還る感覚を想像することができる。

そこにこそ、私たちがこれからの社会で忘れてはいけない“感性”がある。
秩序では測れないもの。
論理では伝わらないもの。
言語では表現できないもの。

そのすべてに向き合うには、赤ちゃんのような“空に生きる存在”が、何よりの教師となる。

そして私たちは、再び空に還る

私たちは成長し、世界に色を塗って生きていく。
けれど、その色の裏側にはいつも、空がある。
空から色が生まれ、色はやがて空に還っていく。
その循環に気づくことができたとき、人は本当に深い創造に近づくのかもしれない。

だからこそ、赤ちゃんとともに過ごす日々のなかで、
混沌や理不尽に触れる時間は、決して無駄な時間ではない。
それは、この世界が本来どういうものであったかを思い出す、大切な通路なのだと思う。

最後に:真理は、身近なところにある

色即是空、空即是色。
その言葉はあまりにも有名だが、実感として理解することは難しい。
でも、もしそれを“知っている”存在がいるとしたら、それはきっと赤ちゃんだ。
まだ言葉も秩序も持たないその存在は、私たちが忘れてしまった“世界の手触り”を、今もちゃんと持っている。

そして私たちもまた、その姿を見つめることで、
かすかにではあるけれど、空の気配に触れることができる。

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