見えていなかった「変化」に気づかされる
朝の車の中。
娘を保育園に送り届ける日々の中で、私は何気なく同じ道を通っている。
でも、その「同じ」は、ほんとうは「同じじゃない」。
「お家、立ってる!」
ある朝、娘がそう叫んだ。
指差す先には、いつの間にか鉄骨が組み上がった建物の骨組みがそびえていた。
たしかに、以前は更地だったはず。
工事用のフェンスが立てられてから、私は何度もその道を通っている。
けれど、気づいていなかった。
それは、私が“見ていなかった”ということだ。
娘の目は、日々の“変化”を捉えている。
世界は「止まっていない」。
止まっているのは、私の解像度の低い目だったのだ。
つぼみを見つけ、花開く瞬間を祝う
別の日、保育園の門をくぐる時。
娘が立ち止まって、プランターをじっと見ている。
「まだ蕾だね」
どこまでも優しく、静かな声。
その小さな観察に、私は思わず立ち止まる。
数日後、
「見て!花が咲いたよ!」
と、同じ場所で嬉しそうに手を叩いた娘。
ああ、この子はずっと「咲くのを待っていた」のだ。
その過程を見守っていたのだ。
大人は“咲いた”という「結果」にだけ目を向けがちだ。
でも娘は、“咲くまで”の微細な変化をずっと感じ取っていた。
つぼみの膨らみ。
色づく花びら。
朝露に濡れたその匂い。
一つひとつのプロセスに目を向け、心を通わせていた。
それは、まさに「この世の流れの解像度」が高いということだった。
解像度とは「世界との距離感」
解像度が高い、というのは情報の粒が細かく見えること。
でも、もっと本質的に言えば──それは「世界との距離が近い」ということだと思う。
たとえば、建物の骨組みの変化に気づくのは、
それが「自分と無関係なものではない」と感じているから。
娘にとって世界は、まだ“自分の外”に切り離されていない。
建物も花も、道ばたの石も、葉っぱも、
ぜんぶが「自分とつながっている」と感じている。
だからこそ、ちょっとした変化にも心が動くのだ。
私たち大人は、世界と少しずつ距離を取っていく。
仕事、予定、スマートフォン、責任。
それらは全部、“今ここ”から目をそらす理由になる。
気づけば、世界の解像度は荒くなり、
変化に心を動かす感性は、だんだん鈍っていく。
かつての私たちも、そうだった
だけど、思い出してみてほしい。
私たちも、かつてはそうだったはずだ。
雨が降る前の匂いに胸をときめかせたり、
アリの巣をのぞき込んで、何時間も観察したりしたことがあった。
「世界ってすごい」
「この石、キラキラしてる」
「今日の風、ちょっと冷たいね」
そんなふうに、“日常”に興奮できる日々があった。
でも、それはいつの間にか通り過ぎてしまった。
もしかしたら、
大人になることは、世界の解像度を少しずつ手放していくことだったのかもしれない。
子どもは、流れの中に生きている
娘と一緒に過ごす中でわかってきたことがある。
それは──
子どもは「結果」ではなく、「流れ」に生きている。
世界の出来事を“点”で捉えるのではなく、
“線”や“面”で感じている。
咲いた花を「完成品」として喜ぶのではなく、
蕾が膨らみ、色づき、開いていく“プロセス全体”に感動しているのだ。
その流れを生きているからこそ、
小さな変化に目を輝かせ、
“今”を深く味わっている。
私は世界をどこまで見ているか?
そう思った時、私は自分に問いかける。
──私は、どれだけの「今」を見ていただろう?
──どれだけの「変化」をスルーしてきただろう?
今日も天気は良かった。
でも、空の青さの“色合いの違い”に気づいていただろうか。
吹いた風の“重さ”や“湿度”に感覚を研ぎ澄ませただろうか。
すべては「流れ」の中にある。
世界は、けっして静止していない。
それを受け取る“解像度”は、
意識しなければ、どんどん粗くなっていく。
娘は「この世の流れの先生」
毎日が忙しい。
やらねばならないことに追われる。
だけど、そんな中でも──
娘が「花が咲いたね」と笑って教えてくれる。
それは、ただの報告ではない。
彼女なりに、世界の変化を伝えてくれている。
「見てごらん」と、優しく声をかけてくれている。
そして私は、ようやく「世界って、変わっていたんだ」と気づく。
私の娘は、まだ3歳。
だけど、確かにこの世の流れの“先生”である。
おわりに──解像度を取り戻すために
大人になると、効率を求めて解像度を落とす。
でも、本当に豊かに生きるためには、
ときに“立ち止まって世界を見直す”ことが必要だ。
子どもと一緒にいる時間は、
その感性を思い出させてくれる、かけがえのない瞬間。
今日もまた、娘の「気づき」が、私の目を世界に向け直してくれる。
──ありがとう。
この世の流れを、もう一度感じさせてくれて。







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