ケーキが生まれる空と、シャツのシミ――娘の涙と、分け合う幸せと、“空”という感情のかたち

家族と向き合う

※この記事では、「色」や「空」といった『色即是空』の概念を扱っています。
※「色」と「空」、そして『色即是空』の意味をより深く知りたい方は、以下の記事で詳しく解説しています。

家族でケーキを食べに行く

静かな休日の始まり

ある日、家族でケーキを食べに行くことにした。
特別なことは何もない、静かな休日。
ただ「ケーキでも食べに行こうか」とつぶやいた、その一言から、家族の時間がゆっくりと動き始めた。

娘のご機嫌な朝

3歳の娘は朝からご機嫌だった。
「今日はベビーカーに乗る!」と、嬉しそうに言った。
小さな身体で、いつもとは違う高さから世界を見る。
赤ちゃんの頃に戻ったような、守られているような感覚があるのかもしれない。

道中での予定外の出来事

弟が眠る

家を出てしばらくすると、1歳の息子が車の揺れに身を委ねるように眠り始めた。
その様子を見て、私は娘に言った。
「弟が寝ちゃったから、今日は弟がベビーカーに乗ろうね」

娘の反応

言葉はできるだけ優しく、説明するように伝えた。
けれど、娘の反応は即座だった。
「やだ! わたしが乗るって言ったの!」
足を止め、目に涙をためて、怒るでもなく、ただ傷ついたような顔で私を見た。
確かに、出発前に自分でそう宣言していたのだ。
その小さな期待が、途中でなかったことになる――それは娘にとって、思っている以上に大きなことだった。

色を失った涙

私はしゃがんで娘の目線に合わせ、ゆっくり話した。
「弟はもう寝ちゃってるし、起こすのはかわいそうだからね」
言葉は通じても、感情は簡単には収まらない。
娘は泣いた。小さな身体で、大きな気持ちを抱えて、声を出して泣いた。

その涙を見て、私はふと思った。
これは、まさに「色即是空」なんじゃないか。
「ベビーカーに乗る」という“色”――娘にとっての形ある喜びが、失われた。
すると、哀しさの“空”が娘の中に生まれ、それが「涙」という色として、目に見える形で表れた。
形が崩れ、空洞が生まれ、そしてそこに感情が溢れる。
この小さなエピソードに、仏教で語られる真理のようなものが垣間見えた気がした。

空からケーキが生まれる

ケーキ屋でのひととき

ケーキ屋に着いて、席について、注文したケーキが運ばれてきた。
私は自分が頼んだチーズケーキを娘に差し出した。
これは単に「かわいそうだから分けた」のではない。
彼女の“空”に何かを差し出したいと思った結果だった。
娘のケーキは、空から生まれた。
そんな気がした。

分け与えられる喜び

しばらくして、娘が自分のブルーベリータルトを私に差し出してきた。
「パパも、どうぞ」
その言葉に、私は胸が熱くなった。
“空”を経験した娘が、今度は私に何かを差し出そうとしている。
それは“感情の循環”だった。
私は、彼女のケーキをありがたくいただいた。

ブルーベリーのシミと嬉しさ

ふと見ると、私のシャツにブルーベリーの小さなシミがついていた。
深い紫が、シャツの布にじんわりと滲んでいる。
普段なら、ああ、汚れたなと思う。
でもその日は、まったく違って見えた。
「これは、嬉しさがシミになって現れたのかもしれない」
感情には形がない。
でも、時にこうして現実に“しみ”となって残る。
喜びが、心の奥からにじみ出て、紫の花のようにシャツの上に咲いた。

幸せの循環という証

感情の循環

私がケーキを分け、
娘がそれを受け取り、
そして今度は娘がケーキを分けてくれた。
そのやりとりは、目に見えない心の循環。
でも、その循環の“しるし”として残ったのが、このブルーベリーのシミだった。

日常の中の“空”

育児のなかには、語られることのないドラマがたくさんある。
子どもの小さな感情の揺れに、いちいち向き合うのは簡単ではない。
でも、そこにこそ「空」がある。
かたちあるものが壊れたときに生まれる余白。
その余白があるからこそ、やさしさが生まれる場所がある。
娘の涙、ケーキ、ブルーベリーのしみ。
そのどれもが、“空から生まれた色”なのだと思う。

あとがき

今日のブルーベリータルトは、ただのスイーツではなかった。
家族の中に生まれた“空”を埋め、感情の循環を運び、最後には紫のしみとして、私のシャツに残った。
これは、記憶のしみ。
感情のしみ。
そして、幸せのしみ。
たとえ洗っても落ちないかもしれない。
それでも、私はこのシミを、どこか大切に思っている。
なぜなら、これは嬉しさの色だから。

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