はじめに:世界は一つではない
私たちが生きているこの世界は、見ようによっては“ひとつ”のように見えます。
地球という惑星の上に、人間が共に暮らし、インターネットで瞬時に繋がり合う。
グローバルな社会、共通の言語、普遍的な倫理、共有された価値観。
──しかし、果たして本当に「世界はひとつ」なのでしょうか?
よく目を凝らしてみると、そこにはまったく異なる複数の世界=宇宙が存在しているのがわかります。
ひとつの文学作品には、それ特有の宇宙がある。
ひとつの哲学体系にも、固有の論理と時間の流れがある。
数学と宗教、物理学と詩、日本文化とアフリカの精霊信仰、都市生活者と山間の村人──
それぞれがまったく違う「重力」を持った宇宙です。
そして何より、「あなた」と「私」が生きている内面的な宇宙も、当然ながら違う。
私たちは、数えきれないほどの宇宙の中で、互いにすれ違いながら生きています。
統合への誘惑と、その罠
ところが現代は、この「多宇宙的な世界」のあり方に、不安を感じているように見えます。
違うものが存在することに、耐えられない。
違う価値観に出会ったとき、すぐに「正しさ」で上書きしたくなる。
だからこそ、統合の誘惑は強くなる。
「わかりやすくしよう」
「すべては本質的に同じだ」
「結局、愛が大事だよね」
「東洋も西洋も一緒。文化の違いなんて幻想だ」
──そんな言葉の背後にあるのは、多様性への敬意ではなく、思考停止です。
複数の宇宙を安易に「ひとつ」にまとめようとすると、
私たちはその宇宙が持っている独特なリズム、痛み、美しさ、問いを見失います。
それは、「本当に大切なものを見えなくする」行為です。
雑音のように聞こえてくる“違和感”や“理解不能”こそが、宇宙が発する独自の声なのに。
尊重なき統合は、「型無し」を招く
「色んな宇宙があって良い」と言うと、それを単なる相対主義と捉える人もいるでしょう。
すべてを許し、何も批判しない。
そこには“軸”がない、と。
しかし私が言いたいのは、それとは違います。
宇宙を「ひとつにしない」のは、それぞれに敬意を払い、深く尊重するためです。
尊重とは、近づかないことではありません。
むしろ逆で、「その宇宙の型を、できる限り丁寧に知ろうとする態度」のことです。
ここで重要なのが、「型」の存在です。
型を知るからこそ、型破りになれる
型を知らなければ、型無しになる。
型を知ってこそ、型破りになれる。
この言葉を遺した立川談志は、芸を極める者としてこの真理に気づいていました。
たとえば落語においても、
古典の型、師匠から受け継いだ話術、所作の意味──
それらを徹底的に身体に染み込ませたうえで、
初めて型を壊す自由が得られるのです。
これは思想の世界にもそのまま当てはまります。
仏教を批判したいなら、まず仏教の内側に深く入り込まなければならない。
フェミニズムに異を唱えるなら、フェミニズムが問いかけてきた歴史的な文脈を知らなければならない。
異文化と対話したいなら、相手の「当たり前」を、自分の身体の中で生きる必要がある。
それが「型を尊重する」ということです。
型を尊重することは、型に従うことではない。
それは、「超えるために、まず知る」ことなのです。
尊重の先に、思想は生まれ続ける
だからこそ私は、
思想とは「統一の果てに生まれる」ものではなく、
尊重のなかで生まれ続けるものだと思うのです。
それぞれの宇宙を尊重しながら、交わらせず、ただ見つめる。
わからないままに、共にいる。
矛盾を抱えたまま、相手の言葉に耳を澄ませる。
そうした沈黙のなかにこそ、
既存の型を超える、新たな思想の芽が芽吹きはじめるのです。
それは叫ぶような思想ではなく、
まるで水面にそっと広がる波紋のようなものかもしれません。
けれど、それこそが本物です。
一度で終わるものではなく、延々と生まれ続けるから。
色んな宇宙があることは、「希望」だ
そして私は、こう結びたいのです。
色んな宇宙があって、良い。
むしろ、色んな宇宙があることが、救いであり、希望なのです。
なぜなら、もし宇宙が一つしかなかったら、そこから外れたものはすべて「間違い」になってしまう。
でも宇宙が無数にあるなら、そこにはいくらでも「居場所」がある。
誰かにとっての真理が、別の誰かにとっての毒であってもいい。
ある宇宙では生きづらい人が、別の宇宙では自由に羽ばたけるかもしれない。
多宇宙的な世界観とは、
「すべてを許すこと」ではなく、
「すべてに深く関わる覚悟」なのです。
だから私は言い続けたい。
色んな宇宙があって良い。
それをひとまとめにしてはいけない。
尊重のなかで、それぞれの宇宙に出会い続けよう。
そうすれば、思想は延々と、生まれ続ける。







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