※この記事では、「色」や「空」といった『色即是空』の概念を扱っています。
※「色」と「空」、そして『色即是空』の意味をより深く知りたい方は、以下の記事で詳しく解説しています。
数学と禅という、遠くて近い宇宙
『宇宙と宇宙をつなぐ数学』との出会い
私は最近、加藤文元さんの『宇宙と宇宙をつなぐ数学──IUT理論の衝撃』を読んだ。
難解でありながら、どこか哲学的で、心を深く揺さぶる読書体験だった。
読み終えて浮かんだ言葉
読み終えたとき、ふと頭に浮かんだ言葉があった。
「これは、只管打坐の証明ではないか?」
只管打坐とは何か
禅の思想、特に道元が説いた只管打坐(しかんたざ)。
ただひたすらに、座る。ただ座る。ただ、そこに在る。
目的も、解も、意味も超えて、ただ坐り、ただ観じる。

IUTと禅的態度
IUT理論も、まさにそれに似た態度を感じさせる。
この理論が試みたのは、単に「難問を解いた」ことではない。
“見るということ”そのものを、根底から問い直したように思えたのだ。
宇宙際という“多視点”への跳躍
宇宙をまたぐ数学の視点
IUT(Inter-universal Teichmüller)理論は、その名の通り、「宇宙と宇宙をまたぐようにして」物事を見る理論である。
視点を移動するアプローチ
数論という世界から一歩外に出て、
別の「宇宙」(構造)から、その世界を眺め直す。
そこで見えた姿を、また別の宇宙へと運び、映し、関係づける。
遠回りに見える本質への道
それは一見、遠回りのようでいて、
実は、本質に最も深く触れるためのアプローチだった。
多視点と只管打坐の共鳴
言い換えれば、IUT理論とは、「一つの視点」にとらわれない数学である。
そこに私は、「ただひたすらに座り、さまざまな思念が去来する中で、それでもなお“見ること”をやめない」只管打坐の精神を感じる。

型を超えるために、まず型を知る
談志の言葉と数学
立川談志の名言に、こんなものがある。
「型を知らなければ型無しになる。型を知って型破りになる。」
望月新一のアプローチ
IUT理論の根底には、この言葉が貫かれているように思う。
加藤さんの著書にもあったように、望月新一氏は、数学の型(体系)を知り尽くした上で、その外へと出ていく。
それは破壊ではなく、超越。
見えているものを壊すのではなく、“見え方”そのものを変える。

型を抜け出す姿勢
型を知り、型を抜け出し、
それでもなお、全体を俯瞰する眼差しを持ち続ける。
禅における型と只管打坐
その在り方は、まるで坐禅を通して、身体という型を調え、
やがてその型すらも意識せず、「ただ坐る」ことに徹する只管打坐のようだ。
色即是空──関係性で世界を見るということ
私の解釈する色即是空
私は以前から、「色即是空 空即是色」という言葉を
自分なりにこう解釈している。
色(形あるもの)は、空(移ろいゆく関係性)でできている。
空を深く問えば、やがて色が立ち現れてくる。
IUT理論と般若心経
IUT理論はまさに、「色(数論の具体的な定理)」を「空(多層的な関係性)」から捉え直す試みだった。
その往還は──
色即是空。空即是色。
数学の言語で、般若心経が繰り返されているようにも見える。
関係性の中で変わる姿
関係性のなかで、物事は姿を変える。
自分の視点が変わるだけで、世界は全く異なる様相を見せる。

禅・哲学・数学の交差点
それは禅でもあり、哲学でもあり、IUT理論が示した“新しい見ること”でもある。
数学は問いの姿勢そのものである
禅と数学の共通点
禅が答えを求めないように、
本来の数学もまた、“解く”ことだけを目的としていない。
むしろ、問い続けることにこそ本質がある。
IUT理論が生まれた問い
IUT理論は、「どう見れば、本質に触れられるのか?」という根源的な問いから生まれた。
証明以上の価値
だからこそ、結果としての“証明”以上に、
そのアプローチそのものが、見ることの革命だったのだと思う。
見ることを手放さない──只管打坐とIUTの交差点
見ることを続ける姿勢
IUT理論を読んで感じたのは、
「見ることを手放さない姿勢」こそが、突破口を生むのだということ。
座禅のプロセスとの類似
それは、座禅に似ている。
ただ座る。
呼吸する。
思考が流れ、感情が去り、
それでもなお、「そこに在る」ことをやめない。
宇宙を旅しながら見る数学
数学も同じだ。
一つの構造から別の構造へ。
複数の宇宙を旅しながら、それでもなお「見ること」をやめない。

IUTは只管打坐である
──それが、IUT理論という“只管打坐”のような数学なのではないか。
終わりに──解の先にある静けさ
IUT理論の奥にあるもの
IUT理論は、たしかに難解だ。
でもその奥には、哲学的な静けさがある。
「見ること」に身を置く
私は、それが好きだ。
目的のために突き進むのではなく、
ただ、「見ること」そのものに身を置く。

禅・数学・人生に通じる学び
数学も、禅も、人生も──
本当に大切なのは、ただそこに在ることの深さを引き受けることなのかもしれない。
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