もったいない? それとも、ありがたい?
実家に帰ると、まず冷蔵庫をのぞくのが習慣になっている。
そこには、びっしりと料理が詰め込まれている。煮物、炒め物、漬物、おすそ分けでもらった果物や総菜……とにかくパンパンだ。
けれど、その半分近くは、食べきれないまま畑の片隅へと運ばれる。
最初は、その光景を「もったいない」と思っていた。
手間をかけて作った料理が、結局捨てられる。
それは命の浪費であり、労力の無駄遣いのように思えた。
しかし、あるときふと気づいた。
それらは「ゴミ」になってはいない。土に還っているのだ。
虫がついばみ、菌が分解し、栄養となって次の野菜を育てていく。
命の循環の中にある食べ物。
それは、「無駄」という言葉では語りきれないものだった。
冷蔵庫に溢れる食材は、足元の安定
実家には畑があり、季節ごとの野菜が採れる。
足りないものだけを買い足すという暮らし。
この生活は、実に強い。
たとえ物価が高騰しても、物流が止まっても、
「なんとかなる」と思わせてくれる、土台のような安心感がある。
この「食に困らない」という事実は、
私にとっては、「足元がしっかりしている」ということの象徴だ。
しかもその安定感は、単に自己完結で終わらない。
余った野菜は近所に配られ、ふいに来た親戚にも食事が出される。
足元がしっかりしているからこそ、人との関係性を支える余裕が生まれている。
無駄に見える「余白」が、人をつなぐ
冷蔵庫にぎっしり詰まった料理は、
「もったいない」という視点から見れば、たしかに非効率だ。
でも、それは同時に、「誰かのために使える余白」でもある。
来客があっても困らない。配ることもできる。保存もできる。
現代は、何もかも効率化され、必要なものを必要なときにだけ手に入れる「最適化」の時代だ。
しかし、最適化は余白を消し、関係性を断ちやすくする。
でも、実家の冷蔵庫の中には「余り」がある。
それは、食の「過剰」ではなく、人とのつながりを保つ「豊かさのバッファ」のようなものだ。

食べ物に執着しないから、食べ物が手に入る
ここで、さらに深いことに気づいた。
実家では、食べ物があるにもかかわらず、誰もそれに執着していない。
「食べきれなかったら、畑に戻せばいい」
「余ったら配ればいい」
「どうせまた採れる」
その姿勢は、一見するといい加減にも見える。
でも、それは食べ物に対する“絶対的な信頼”があるからこそできることだ。
つまり、「足りないかもしれない」という不安がない。
人は、食べ物が足りないと思うと、買いだめをする。
余らせないようにと、無駄なくコントロールしようとする。
でも、それが強い「執着」につながる。
一方、実家の暮らしには、「また採れる」という安心がある。
だから、「あげる」「捨てる」「循環させる」ことを自然に受け入れている。
執着しないから、手放せる。手放すから、めぐってくる。
この循環が、実家の食生活を成り立たせている。
執着の手放しが、関係性の広がりを生む
実家の生活を見ていて感じるのは、「食べ物は関係性の媒体」でもあるということだ。
野菜をもらえば、お礼の一言が生まれ、
料理をおすそ分けすれば、会話が生まれる。
それが繰り返されて、地域のつながりが育つ。
もし、すべてを「自分たちのためだけ」に完璧に使いきろうとしたら、
その関係性は生まれなかったかもしれない。
多少余らせてもいい。
多少無駄になってもいい。
完璧じゃなくていいからこそ、人は人と関わる。
その「ゆるさ」こそが、豊かさなのではないかと思う。
無駄なようで、無駄じゃない
都会にいると、何もかもが「効率」と「正しさ」で評価される。
食べ物も、エネルギーも、人間関係も。
でも、実家の冷蔵庫には、そのどれにも当てはまらない豊かさが詰まっていた。
少し傷んだ野菜、食べきれなかった煮物、使いきれなかった果物……
それらは、捨てられてはいたが、命の循環に戻っていた。
無駄ではない無駄。
使いきれなかった豊かさ。
そして、執着しないことで保たれる安心感。
冷蔵庫に詰まったその空間には、目に見えない哲学が詰まっていた。
[結びに]
「もったいない」と「もったいなくない」の境界は、
誰かと関わる余裕があるかどうかで決まるのかもしれない。
足元の食がしっかりしていれば、心にも余裕が生まれる。
その余裕が、人とのつながりや分かち合いに姿を変える。
それがまた、めぐりめぐって自分を支えてくれる。
執着せずに手放すこと。
それが、最終的に豊かさにつながる。
そう信じて、今日も私は実家の冷蔵庫をのぞいてみる。







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