【致知11月号・感想】特集「名を成すは毎に窮苦の日にあり」──名を成すは、母のように

致知感想

「名を成す」という言葉に宿る矛盾

『致知』11月号の特集は「名を成すは毎に窮苦の日にあり」だった。
ページをめくるたびに、偉業を成し遂げた人々の裏にある苦難や努力が描かれている。
だが読み進めるうちに、私はふと、自分の身近な存在――母のことを思い出した。

「名を成す」とは、名誉や成果を得ること。
しかし、本当に名を成す人とは、名を求めていない人なのかもしれない。
むしろ、名を手放したときにこそ、名が自然と立ち上がる。
母を見ていると、そう思わずにはいられない。

母が教えてくれた「名を成す」の形

友人の声にすぐ応える母の姿

ある日、母のもとに一本の電話がかかってきた。
「にんにくある?」
母は「あるよ」と答え、それを抱えて車に乗り込み、迷うことなく出かけていった。

頼まれごとに即座に反応できる人は少ない。
多くの人は「あとで」「今度」と言葉を濁す。
だが母は、相手の困りごとを自分のことのように感じ取る力を持っている。

母の一日は、誰かのために回っている

母はパートで働きながら、実家の家事を手伝い、畑を見に行き、孫の面倒まで見ている。
自分の時間はどこにあるのだろうと思うほど、一日中、誰かのために動いている。

私ならとっくに音を上げているだろう。
それでも母の口から「疲れた」「大変だ」という言葉をほとんど聞いたことがない。
疲れを見せないというより、疲れを忘れてしまう生き方をしているのだ。

「与えること」を当たり前にしている人

母にとって、人に何かを渡すことは「善行」ではない。
特別な意識もなく、ただ当たり前のようにそうしている。
「にんにく」「野菜」「おすそ分け」。
モノを渡しているようでいて、実のところ“想い”を渡しているのだと思う。

手放す人のもとに集まる豊かさ

そんな母のもとには、いつもたくさんのモノが届く。
筍、手作りこんにゃく、笹団子、ちまき、果物、ケーキ。
どれも「ありがとう」「助かった」という言葉と一緒に運ばれてくる。

それを見て私は思う。
モノや自分への執着を手放す人のところに、モノは巡ってくるのだと。
母の暮らしは、まるで自然の循環のようだ。
与えることが止まらず、受け取ることも尽きない。

手放すとは、捨てることではなく、手渡すこと
その瞬間に繋がりが生まれ、想いが形になる。
この「手渡す」という行為こそ、“名を成す”ことの原点なのかもしれない。

「名を成す」の本質を見つめて

名を成すとは、他者との間に生まれるもの

「名を成す」と聞くと、多くの人は「努力して何かを得る」ことを思い浮かべる。
しかし母の姿から学んだのは、名を得ようとする人よりも、名を手放す人こそが名を成すということだ。

母が誰かににんにくを渡すとき、それは一見小さなやりとりでも、そこに「ありがとう」という言葉が返ってくる。
その瞬間、母と相手の間に“名もなきつながり”が立ち上がる。

名とは、自分のために成すものではなく、名もなきつながりの中で成り立つものなのだ。

手放しの連鎖が、名の連鎖になる

母の行動を見ていると、与えることがさらに与えられる行為を呼び、そこからまた新しい関係が生まれていく。
それは、「名」の連鎖とも言える。
一人の小さな優しさが、次の誰かを動かしていく。

名を追う人は名を終わらせ、名を手放す人は名をつないでいく。
母はその後者の生き方を体現している。

母のように生きるという挑戦

私は母のように生きたいと思う。
だが、実際には難しい。
仕事に追われ、家庭での役割に追われると、「今は自分を優先したい」という気持ちが顔を出す。
それが人間として自然な反応でもある。

しかし、母はその“損得の心”を超えている。
頼まれたとき、「どうしよう」ではなく「よし行こう」と即断する。
この“ためらわない心”こそ、母の強さの源なのだろう。

母の生き方を見ていると、手放すとは一種の“修行”だと感じる。
それは山に籠るような厳しさではなく、日常の中で己を磨く静かな修行。
欲を減らし、誰かを思いやり、目の前のことを丁寧にやる。
その積み重ねが、結果として「名」を形づくっていく。

名を成すは、母のように

日々の手渡しの中に名は芽吹く

『致知』の特集を読み終え、私は改めて思った。
名を成すとは、特別な場面で起きることではない。
日々の小さな手渡しの中にこそ、名は芽吹く。

母のように、誰かのために動く――
その積み重ねが、いつしか「名」という形を持ち始める。

「名を成すは毎に窮苦の日にあり」。
この言葉を、私は“日々の小さな苦労を惜しまない人にこそ、名が宿る”と受け取った。
母はまさにその人である。
名を求めず、与え続け、笑っている。
その姿に、私は人間としての原点を見る。

終わりに ― 自分の前の誰かのために

名を成すは、母のように。
そう心に刻み、今日もまた、自分の前にいる誰かのために、小さなひとつを手渡していきたい
その行為の連なりが、やがて私自身の「名」となる日を信じて。


※この記事は、雑誌『致知』(2025年11月号)特集「名を成すは毎に窮苦の日にあり」を読んでの個人的な感想です。
気になる方は、ぜひ実際に手に取って読んでみてください。

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