受け取られること、受け取られないこと
ある日、3歳の娘が保育園での出来事を話してくれました。
「○○ちゃんの靴を出してあげたの。でも、その子は自分で出したかったんだって。
でもね、△△ちゃんは『ありがとう』って言ってくれたよ。」
なんでもない会話のようですが、私はこの一言に、とても深い意味を感じました。
「誰かのために動くこと」と「その気持ちが受け取られること」、
そして、「受け取られないことがあるという現実」。
これは、私たち大人でもしばしば直面する、関係性の本質です。

「してあげたい」という気持ちの芽生え
娘の中に「誰かのために動きたい」という心が育ち始めていることが、とても嬉しかった。
自分のためではなく、他者の存在を感じ、その人の役に立ちたいと思う気持ち。
それはまさに「思いやり」の芽生えです。
言われたわけでも、求められたわけでもないのに、
「やってあげたい」と思う心が自然と生まれるということ。
こういう瞬間に立ち会うたび、子どもの成長の尊さを感じます。
でも、それが喜ばれるとは限らない
けれど、娘はその行動が喜ばれなかったという体験もしました。
「自分でやりたかった」という友達の反応は、
娘にとってきっと意外で、少し寂しかったかもしれません。
人のためにしたことが、必ずしも感謝されるとは限らない。
時には拒絶されたり、無視されたりすることもある。
それは、大人になっても慣れない現実です。
善意と受け取り方のあいだにあるもの
私たちはよく「良かれと思って」何かをします。
けれどその「良かれ」が、必ずしも相手にとっての「心地よさ」とは限りません。
そのずれに気づいたとき、私たちは戸惑います。
時には、「もう何もしてあげないほうがいいのでは?」とすら思う。
でも、そんなときこそ大切なのが――
「相手は何を求めているのか」を想像しようとする姿勢
なのだと思います。
でもね、「何を求めているか」は、本人すらわからないことがある
ここで、もう一歩深く踏み込みたいことがあります。
それは、
「相手が何を求めているか」を考えることが大切、
だけど、
そもそも相手自身が、自分の気持ちに気づいていないこともあるという事実です。
たとえば、靴を出してもらって「自分でやりたかった」と言ったお友達。
本当にそう思っていたのかもしれないし、
もしかしたら、「ありがとう」と言いたかったけど、
何かモヤモヤする気持ちをうまく言葉にできなかっただけかもしれない。
人は、自分の感情すら見失ってしまうことがある。
とくに、幼い子どもは言葉にする術をまだ持っていないし、
大人でも、自分の本音に気づくのは簡単ではありません。
助けてほしいのに「大丈夫」と言ってしまったり、
本当は甘えたいのに、強がって怒ってしまったり。
そんな「心のねじれ」や「伝え方の不器用さ」が、
人と人とのすれ違いを生むのだと思います。
わからなくても、問い続けること
だからこそ、「どうすれば喜んでもらえるか」という正解を求めすぎるのではなく、
「今、自分はどうしたかったのか」
「相手はどんな気持ちだったのか」
という問いを持ち続けることが、何より大切だと思うのです。
相手の本音がわからなくても、寄り添おうとすること。
言葉にならない気持ちに、耳を傾けようとすること。
自分のした行動を、静かに振り返ること。
その積み重ねが、「やさしさ」の本質だと思います。
子どもの姿に、人間の本質を見る
娘はまだ3歳です。
でも、そんな彼女が、
「誰かのために何かをすることの喜び」と、
「その気持ちがうまく受け取られない現実」の両方を体験し始めている。
私はそのことに、とても深く心を打たれました。
人と関わるとは、いつも不確かで、時に苦く、けれど尊い営み。
その最初の一歩を、娘が踏み出している。
そして私は、その小さな一歩に、はっとさせられ、教えられるのです。
人と生きるとは、「わからなさ」とともに生きること
大人になると、「正しさ」や「正解」を求めてしまいがちです。
でも、実際の人間関係は、そんなに単純ではありません。
相手のことも、自分のことも、いつだって完全にはわからない。
だからこそ、わからなさを抱えながら、それでも関わろうとする姿勢――
それが人と共に生きるということではないでしょうか。
娘の何気ない言葉が、私にそんな大切な問いを、改めて投げかけてくれました。
ありがとう。
あなたの気づきが、私の心にもそっと火を灯しました。
あとがき:問いとともに生きる
他人に優しくするって、こんなに難しい。
でも、だからこそ、こんなにも尊い。
思いやりは、「わかってあげること」じゃなく、
「わかろうとし続けること」の中にある。
私たちは正解のない世界を生きています。
でも、「問い」と「やさしさ」は、きっとその道しるべになってくれる。
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