子どもは守られながら育つ存在と不安定な日常
守られるべき時期と安全マットの比喩
子どもは、本来、守られながら育っていくべき存在です。
親の庇護のもとで、日常の安全と安定のなかで、思いっきり転び、泣き、笑い、じゃれ合い、世界を五感で感じながら、自分という存在を育んでいく。
それはまるで、安全マットの上で、大胆な技を何度も試す体操選手のよう。
守られているという確信があるからこそ、人は挑戦し、育つことができる。

サツキとメイの不安定な日常と心のねじれ
でも、サツキとメイの生活には、その“マット”が不安定になっている。
母は入院中。おそらくは結核。
幼い彼女たちは、その言葉すら知らないかもしれないけれど、肌で、空気で、家族の雰囲気から、それを察している。
その“察し”が、どれほど子どもの心を蝕むか。
守られるべき存在であることを、自ら放棄してしまうような、心のねじれ。
それでもなお、メイは畑を走り、サツキは妹の面倒をみて、父の代わりに家のことを切り盛りしようとする。
「大人のように」振る舞おうとする二人の姿に、私たち大人は、見ていて胸が締めつけられる。
トトロという存在が語る「子どもらしさ」と寄り添う力
不思議で懐かしい存在と自然の象徴
そんな二人の前に、ある日突然現れるのが、トトロ。
説明もなく、言葉も通じない不思議な存在。けれども、なぜだろう。彼は、どこかとても「懐かしい」。
風の音や、葉のざわめき、森の静けさ、月明かりのまろやかさ――そういった自然そのものが姿を取ったのが、トトロなのだろう。

トトロの語りかけと子どもたちの信頼
そして、彼は静かにこう語っていると思う。
「子どもは、子どもらしくあっていいんだよ。」
不安に呑み込まれそうな心を、ぎゅっと抱きしめるように、「大人にならなくてもいいよ」と語りかけてくれている。
だからこそ、メイは迷いなくトトロのもとに走り出す。
サツキはトトロを信じて、ネコバスに乗る。
言葉にしなくても、「この存在は、私たちを受け止めてくれる」と感じているから。
「今ここ」に立ち戻る瞬間と生きる意味
雨音に耳を澄ませる瞬間と空を翔ける自由
バス停のシーンは象徴的だ。
雨の夜、父を待つサツキとメイ。雨は容赦なく降り、バスはなかなか来ない。
でも、そこにトトロがやってくる。
サツキが差し出した傘に、ぽとん、と雨粒が落ちる。ぽとん、ぽとん――その音に、トトロは耳を傾け、嬉しそうに微笑む。
もう一つ、象徴的なシーンはトトロたちと一緒に“空を飛ぶ”場面。
風に吹かれて、空を自由に翔けるその瞬間、サツキもメイも、不安も悲しみもまるでなかったかのように、ただ「生きている」ことを全身で感じている。
まさに“今ここ”にある感覚。心が未来や過去から解き放たれ、「あるがまま」でいる感覚。
仏教でいう「有時(うじ)」――時間そのものが生きている状態に身を浸すことこそが、生きることの本質である。

絶望の中で寄り添うトトロ
母の病状が悪化する手紙を受け取った時、サツキは泣き崩れる。
「どうしていいかわからない」と叫ぶ彼女の姿は、観ている私たちの心にも深く刺さる。
でも、その絶望のなかにトトロは現れる。
トトロは現実を変える魔法は持たない。でも、「そのままでいいんだよ」とそっと寄り添ってくれる。
未来の不安を消し去ることはできない。けれど、その不安に飲み込まれずに「今ここにある」ことを教えてくれる。
トトロがいる世界では、死の影すらも優しく包まれているように感じる。
結末のない物語と宮崎駿のメッセージ
「今」がすべてであること
この物語には結末がない。お母さんは助かったのか?この家族はどうなったのか?何も語られない。
それがこの物語の“答え”であり、未来が描かれないのは「今」がすべてだからだ。
未来を不安に思う気持ちは、私たちにもある。でも、それはまだ来ていない。
来ていないことに囚われて、今を見失ってしまうほうが、もっと怖い。
『となりのトトロ』は、そのことを教えてくれる。
「未来のことなんて、わからない。でも、今を大切にすれば、必ず何かに繋がる」
「子どもは子どもらしくあれ」
トトロという存在を通して描かれたのは、「子どもであることの尊さ」。
不安や悲しみがあってもいい。でも、その中でも笑ったり、遊んだり、泣いたりできるのが、子ども。

大人になるのはあとでいい。強くあろうとしなくてもいい。
安全マットが外れていたとしても、そのとき誰かが「今ここ」を支えてくれるなら、子どもはまた立ち上がって飛べる。
トトロの核心メッセージは一つ。「子どもは、子どもらしくあれ」。
その言葉こそ、この物語の核心であり、今の私たち大人にも向けられている問いかけなの
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