「経済=economy」って、ほんとに正しい訳?
「経済」という言葉を、当たり前のように「economy」と訳すけれど……
ほんとうに、それでいいんだろうか?
改めて考えてみると、その意味合いはまるで違っていた。
経世済民――それが「経済」の本来の意味だった
もともと「経済」という言葉は、
「経世済民(けいせいさいみん)」という四字熟語からきている。
それは、こういう意味だ。
「世をおさめ、民をすくう」
(=国や社会を正しく導き、人々の暮らしを支えること)
つまり、経済とは人の命を守るための知恵と仕組みのことだった。
貨幣でも、貿易でも、成長率でもない。
「人を救うこと」。
それが“経済”の出発点だったはずだ。
一方、「economy」の語源は?
じゃあ、英語の「economy」はどうかというと――
語源は古代ギリシア語の oikonomia(オイコノミア)。
- oikos:家
- nomos:管理・規則
つまり、「家の管理」や「家計のやりくり」が原点。
とてもミクロな世界観で、社会や人の幸福というよりは、
いかに効率的にリソースを使うかが軸にある。
経済(経世済民)とeconomyは、本来まったく別のもの
| 項目 | 経済(経世済民) | economy(オイコノミア) |
|---|---|---|
| 原義 | 世をおさめ、民をすくう | 家を管理する |
| 視点 | 国家・社会・人間全体 | 家庭・財政・資源配分 |
| 重視するもの | 人の暮らしと幸福 | 効率・合理性・計算性 |
| 目的と手段 | 「目的」そのもの | 「手段」や「仕組み」 |
なのに、どうして私たちは「経済=economy」だと
無邪気に受け入れてしまってきたんだろう?
明治の翻訳と、すり替わった意味
その鍵は、明治時代にある。
西洋の概念が大量に日本に流れ込んだとき、
それを訳す言葉が必要になった。
「economy」に対して選ばれた訳語が、
なんと「経世済民」――つまり「経済」だったのだ。
でも本来、民を救う思想と、家計の管理は別物のはず。
翻訳の中で、「人のための仕組み」が、
「効率のための仕組み」に、すり替わってしまった。
「成長率」や「GDP」って、誰のため?
現代では、経済=GDP=成長率、といった言葉が飛び交う。
でも、それって誰のための成長なんだろう?
- 数字が上がっても、生活は苦しいまま。
- モノはあふれても、心は枯れていく。
- 効率を上げても、余裕はなくなる一方。
それが、経世済民=経済のはずがない。
経済は、人のためにあるべきだった
思い出したい。
経済という言葉には、もともと祈りのような意味があったことを。
人のいのちを守りたい。
暮らしを支えたい。
心がちゃんと満ちていてほしい。
その願いを込めて、「経済」という言葉が生まれたはず。
「経済成長」とは、本来そういう人のための成長であるべきだった。
経済を、「つながりの中」に取り戻す
今、私たちが問うべきは、「経済って何か」ではなく、
「誰のための経済か」という問いではないか。
家族のため、地域のため、
未来の子どもたちのため――
そうした具体的な誰かを思い浮かべながら
仕組みをつくっていくこと。
それが、「経済(経世済民)」をもう一度、
人間の手に取り戻すということなのかもしれない。
おわりに
たきさんがふと抱いた違和感――
「経済って、ほんとにeconomyでいいの?」
その問いは、何気ないようでいて、
現代社会全体への鋭い投げかけだ。
経済は、いつからか「数字の世界」になってしまった。
けれど本来、経済とは「人の世界」のことだったはずだ。
もう一度、その意味を思い出すことから、
未来は静かに変わっていくのかもしれない。







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