『赤めだか』に流れていた“理不尽というリアル”

作品と向き合う

──それでも、生きるか?

ある日の夜、読み終えた本を静かに閉じたあと、私はしばらく動けなかった。
心にざらりとした何かが残っていた。
それは感動とか共感とか、そんな名前のつくような“整った”ものではない。
もっと素朴で、もっと鋭い問いだった。

「それでも、生きるか?」

そう問いかけられたような読後感。
それが、立川談春の『赤めだか』だった。

「これは物語ではない」

『赤めだか』は、立川談春が落語家になる過程を記した自伝的青春記である。
だがそれは、世間一般が思い描く“芸人の下積み話”ではない。
もっとむきだしで、もっと無骨で、もっとえぐい。

よくある“美しい物語”を期待すると、面食らうかもしれない。
この本には、理屈の通らないことが平然と描かれている。
納得できないことが、納得されないまま流れていく。

「理不尽」
この言葉を、私はこれまで何度使ってきたか分からない。
けれど、『赤めだか』におけるそれは、もっと生々しい。
ただの不満や怒りではない。
それは、ひとりの人間が“生きること”と“芸に向き合うこと”のあいだで、身を削るようにして耐えていた記録だった。

常識の通じない世界で、人はどう生きるか

談春は、17歳のときに立川談志に弟子入りする。
それは、“別の世界”の扉を開くということだった。

入門早々、理不尽の嵐が襲いかかる。
怒鳴られ、殴られ、罵倒される。
時に正論が通じない。
時に感情がすべてをねじ伏せる。

その日その日でルールが変わる。
師匠の気分ひとつで世界は簡単に裏返る。
誰にも何も保証されない。
「なぜ?」と問うことさえ、許されない空気。

私はそこに、“芸の世界”という特殊な場だけではない、
この社会そのものの縮図を見た気がした。

理不尽と感じるものの正体は、結局、人間そのものだ。
人の感情。
人の気まぐれ。
人の不安。
そして、人が人を支配したいという無意識の欲望。

「逃げなかった」という事実

読んでいて、何度も思った。

「よく辞めなかったな」と。

逃げても誰も責められない状況だった。
実際、ほとんどの弟子が去っていった。
談志という人物の苛烈さ、狂気、孤独、それらは人の心を簡単に壊し得る。
なのに、談春は居続けた。

理由は書かれていない。
いや、書こうとしても書ききれないのだろう。
むしろ、理由のない「どうしても」が、そこにはあった。

師匠の生き様、
落語という芸の奥行き、
一度見てしまった“何か”に心をつかまれて、離れられなくなったのだ。

私はその感覚を、なんとなく分かる気がした。
それは恋にも似ているし、信仰にも似ている。
理屈ではなく、“在る”としか言えないもの。
どうしても信じたくなるもの。

それがあるから、人は生きられるのだと思う。

落語ではなく、「生き様」に惹かれた

談志は、破天荒だった。
論理的である一方で、矛盾だらけでもあった。
人間の業や欲を隠そうとせず、それでいて芸に対しては誠実だった。

私は談志という存在に、「人はこんなに矛盾していても、生きていていいのかもしれない」という希望を感じた。

完璧じゃなくていい。
聖人である必要はない。
どこかおかしくて、ぐちゃぐちゃで、それでも何かひとつだけ、大切にしているものがあれば、生きていける。

談春は、その“生き様”に心を燃やしたのだと思う。
だから、理不尽にも耐えられた。
いや、耐えるというより、そのなかに自分なりの道を見出していったのかもしれない。

「物語」ではなく、「記録」であるということ

『赤めだか』は、美しい起承転結を持たない。
感動的なハッピーエンドも、読者の心をすっきりさせるような“答え”もない。
でも、それでいい。
いや、それがいい。

人生もまた、そんなものだ。
日々の不条理、予測不能な人間関係、自分でも説明できない感情。

それらをまるごと受け入れて、それでも今日を生きる。
『赤めだか』は、そのための静かな手引きのようにも思える。

「それでも、生きるか?」と問われたら

ページを閉じたあと、私はしばらく空を見ていた。
ただ、雲が流れていくのを、ぼんやりと眺めていた。

「それでも、生きるか?」

談春は、その問いに何度も答えてきたのだろう。
言葉にはならないまま。
答えを出すためではなく、ただ向き合い続けるために。

そして今、この世界の片隅で生きる私たちもまた、
同じ問いに直面している。

仕事に意味が見出せないとき。
人との関係に疲れたとき。
自分の価値を信じられなくなる夜。

そんなときこそ、自分に問いかけてみたい。

「それでも、生きるか?」

たとえ世界が理不尽でも。
たとえ誰にも理解されなくても。
それでも、信じたい何かが、あなたのなかにあるなら。

「はい、生きます」

私はそう答えたいと思った。

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